嫌イスラームの再燃を恐れるイスラーム世界 - 酒井啓子 中東徒然日記

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2015年01月09日 22:51  ニューズウィーク日本版

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ニューズウィーク日本版

 シャルリー・エブド誌襲撃事件は、世界を震撼させている。欧米諸国を、というより、世界中のイスラーム教徒を、だ。


 フランス版9-11事件ともいえるほどの衝撃を与えたこの事件に対して、イスラーム諸国は即刻、テロを糾弾し、フランスへの哀悼を示した。フランスと関係の深い北アフリカ諸国や、経済的なつながりの強い湾岸諸国はむろんのこと、ほとんどの中東の政府、要人が深々と弔意を示している。エジプトにあるスンナ派イスラームの最高学府たるアズハル学院も事件への非難声明を出したし、欧米諸国から「テロリスト」視されているレバノンの武装組織ヒズブッラーですら、惨殺されたフランスの漫画家との連帯を表明している。


 意地悪な見方をすれば、この事件がイスラーム教徒の「踏絵」と化しているともいえる。ちょっとでも犯人側をかばうような発言をして、今後吹き荒れるのではと懸念される欧米での嫌イスラーム風潮に巻き込まれて、「テロリストの一味」視されたらたまらないと、不安感が蔓延しているのだろう。


 それでも、少しは「でもやっぱりフランスにも責任があるじゃないか」的な(それなりに真っ当な)コメントは出てくる。実のところオランド政権になってフランスはブッシュも真っ青なほど徹底した「反テロ戦争」強硬政策を取っているとか、その関連で今でも仏兵3000人を駐留させているマリを始めとして西アフリカへの直接関与を強めているとか(本コラム2013年1月23日付を参照ください)、近年の選挙でフランスのみならず移民排斥を訴える極右が台頭しているとか、フランスは間接的にイスラーム国を支援してテロを助長するような政策をとってきたじゃないか、とか。


 トルコの有力紙ヒューリエット(ウェブ版)は、以下のような「フランスの事情」を背景として指摘している。襲撃事件のあった日は『降伏』という小説が出版された日だったが、これは「フランスでムスリム同胞団が与党となり、フランスにイスラーム法による統治が導入される」という内容の近未来小説。これが大論争になっていたというのだ。


 それでも、目につく部分では圧倒的に、フランスに対する全面的同情で覆われている。攻撃された週刊誌に同情し、表現の自由はテロに屈しないとの意思をこめて掲げられたスローガン「私たちはシャルリーだ」のツイッターには、多数のイスラーム教徒がフォローしていると言われる。


 この「シャルリー擁護」の広がりには、驚かされる。もともと急進的左翼系のシャルリー誌によるイスラーム侮辱論調は、2006年から続けられてきたが、その過激な批判精神はイスラームに対してだけではない。やりすぎではとの声は、国内外からしばしば挙げられてきた。


 2012年9月にシャルリー誌が預言者の裸を描いた漫画を掲載したとき(この号は、アメリカで製作された「イスラーム教徒の無知」という反イスラーム自主映画を取り上げた)、全世界のイスラーム教徒が怒って各国の大使館に押し掛けた。リビアで映画に怒った群衆がアメリカの領事を殺害したことは、記憶に新しい。それでも、このときホワイトハウスは、裸の預言者を描いたシャルリー誌に非難的対応をとった。


 これはどういう意味か。2012年には、イスラーム教徒が自然に怒り、欧米諸国が自制を呼びかける空気があったということだ。そして今、イスラーム世界は、「シャルリー擁護」論に賛同を示さざるを得ないほど、欧米諸国がイスラームに再び厳しくなっていることを実感しているということだ。


 この変化の背景に、「イスラーム国」があることは間違いない。ブッシュの戦争の後、オバマ大統領が就任後最初に行ったのは、「イスラームを敵に回しているのではない」ということを中東諸国に宣言してまわることだった。それが、「イスラーム国」の登場で逆戻りしつつある。イスラーム=アルカーイダ=テロ、との単純化を払拭しようとしてきたのに、今、再び欧米社会でイスラーム=イスラーム国=テロ、という単純化が主流となりつつある。


 忘れるべきではないのは、シャルリー擁護かテロ擁護か、の2項対立で抜け落ちるものの重要性である。何が抜け落ちるのか。まず第一に、フランスを始めとして、欧米社会で差別を受け辺境に追いやられてきたイスラーム教徒の移民社会の憤懣を、合法的な手段に訴え解決を図ってきた、在欧米社会のイスラーム教徒の地道な努力である。


 シャルリー誌の、ほぼヘイトスピーチともいうべきイスラームに対する侮辱表現が、多くの欧米在住のイスラーム教徒を傷つけてきたことは事実である。そしてそれを合法的な形で止めさせようと、イスラーム教法曹界はさまざまに努力してきた。


 2014年2月のムスリム法的擁護連盟の試みが、その一例だ。彼らはシャルリー誌を、フランス法ではなくドイツ法を継承したアルザス州、モーゼル洲で、「神への冒涜罪」に当たるとして訴えた。フランス法には神への冒涜罪がない。だが両州は大戦後にドイツから編入されたためフランス法が適用されておらず、「神への冒涜罪」があるのだ。その対象はユダヤ教、キリスト教しかないのだが、あくまでも法を冒さないという姿勢が、このような行動に繋がっている。


 もうひとつ零れ落ちるものが、表現の自由を求めているのはイスラーム諸国でも同様だという認識である。むしろ、イスラーム諸国のジャーナリストこそが、表現の自由に対する制限に最も苦しめられてきたともいえる。エジプトで「アラブの春」が起きた際、その火種のひとつとなったのが、官憲の拷問によって惨殺されたブロガー、ハーリド・サイードに対する共感意識の広がりだった。2013年3月、当時のムルスィー政権下で、風刺の効いた辛口ジョークで人気のエジプトのテレビタレント、バッサム・ユーセフが逮捕されたことは、エジプト社会で大問題になった。


 シャルリー誌の侮辱は許せない、だが表現の自由をテロで奪うのはケシカラン、というごく真っ当な感覚を、イスラーム教徒も当然持っているのだ、と認識すること。そのことを、テロの痛みのなかで欧米社会が失わずにいられるかどうか。


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