『モテキ』はサブカルではない! 3人のオヤジミュージシャンが嘆くサブカルの変質

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2015年05月30日 12:10  リテラ

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リテラ

『日本人の99.9%はバカ』(コアマガジン)

「サブカルチャー(サブカル)」という言葉・文化の定義をめぐっては常に論争が張り巡らされてきた。昨年、NHK Eテレでは、劇作家の宮沢章夫氏をコンダクターとした『ニッポン戦後サブカルチャー史』なる番組も放送された。



「クールジャパン」とも呼ばれ、日本のポップカルチャーが我が国の輸出物として注目を集めるいま、「"サブカルチャー"とは何か?」について、NHKですら考える時代となっているのだ。



 そんな「サブカルチャー」という言葉の受け止められ方について、『日本人の99.9%はバカ』(コアマガジン)の中でロマン優光氏も一石を投じた。



 ロマン優光氏といえば、掟ポルシェ氏とともに、ニューウェイブバンド「ロマンポルシェ。」として活動。そのかたわら、アイドル・パンク・特撮など、様々な分野に関して造詣が深いことでも知られ、ライターとしても活躍している人物だ。



 吉田豪氏が言うところの「サブカルには、コアマガジン系のサブカルと、マガジンハウス系のサブカルの2種類ある」の基準に照らしてみれば、キワモノ系ジャンルを得意とした、コアマガジン系サブカルの中心人物と言える存在である。



 前述の著書の中でロマン優光氏は、最近サブカルとして取り上げられるものについてこう語る。



「それは悪い意味でサブカルですらないという人や事柄が増えすぎでわけがわからないよ! それ『サブカル』ですらないんじゃないか?」



 なかでもサブカルを代表する作品としてあげられることの多い、久保ミツロウの漫画『モテキ』(講談社)についてはこうだ。



「まず、主人公は作中でロック・フェスに赴きます。こういう部分を指してサブカルと言う人もいるとは思います。しかし、よく考えてください。そもそも、ロック・フェスというものはサブカルという範疇に属しているものなのでしょうか? あんな大勢の人間があつまってワイワイ楽しそうにしているところに行きたがる行為がサブカル的だとはどうしても思えません」

「例えば、吉田豪さんがロック・フェスに行ってアウトドアを楽しんだり、一体感を味わったりするところが想像できるでしょうか? 私には想像できません。豪さんが好きなバンドが会場限定で発売する音源でもあれば物販スペースに赴くためにフェス会場に現れるかもしれませんが、そうでなければインタビューしに現れるぐらいでしょう」



 カウンターカルチャーを、「本流ではないもの」を好むサブカルにとって、浮かれた人が大勢いるフェスに行くような行為は、「サブカルではなく単なるミーハー」。ちなみに、吉田豪氏といえば、日本最大級のアイドルフェス『TOKYO IDOL FESTIVAL』に、現場でしか買えないローカルアイドルのCDを漁るため、毎年物販スペースに現れることで有名だ。



 そんな、『モテキ』における、サブカル的アイコンへの理解の薄さは、宇多丸氏も『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』(TBSラジオ)内の映画評論コーナー「ザ・シネマハスラー」内でこう批判している。



「途中でさ、『ももクロもAKBもスマイレージも全部構造は同じだ』みたいなことを言われて主人公が『はぁ』なんて納得するんだけど...。いや、違うけど! 全然違うけど!」

「自分のことをサブカルって自己規定している人なんているか?とも思うしね。『俺のサブカルトーク全部打ち返してくれるよ』って言う?」



 ロマン優光氏は、『モテキ』という作品をバカにしているわけではない。ただ、「手法的には、しっかりとした技術に支えられた正統派の漫画」であり、作品のテーマについても「作者の体験や恋愛観に根ざした、ちゃんとした色々な人が身につまされるであろう恋愛観を描いた作品です。サブカル的と言えるほど、一般的でないテーマを扱っている作品だとは思えません」としているだけだ。



 要するに、作品の質云々の問題はともかくとして、単にサブカルチャー的なアイコンを散りばめただけでは「サブカル」と呼ばれる作品にはならないということなのだ。



 そして、『モテキ』のような作品が「サブカル」として一般に受け止められてしまうほど「サブカル」という言葉の意味が変わってしまったことについてこう記述している。



「サブカルとヲタクの違いというのは対象そのものの違いではなく、情報に固執するか、対象に固執するかのアプローチの差にあるのではないかと私は思っています。(中略)膨大な量の知識を管理していて初めて情報を弄ぶことができるのです。自称・サブカルの人たちの中には発信&整理された情報を消費しているだけで、そこから自分でそれをいじって遊ぶことができません。いじるだけの知識に欠けてるからです」

「サブカルの持ち合わせるスノビズムというものは嫌らしいもので、ヲタクの持つフェティシズムのキモさと同じくらい不快なものですが、それだからこそ生まれるストイシズムと美学というものはあったはずです。

 それがなくなったとしたら、存在する意義があるのでしょうか。サブカルという言葉の意味が空洞化し、文化風のミーハーを指すようになったとするなら、かつてのサブカルが持っていた良質な部分を表すのに新しい言葉が必要なのかもしれません」



「サブカル」に属するにあたって、このように膨大な知識を重要視しているのはロマン優光氏だけではない。大槻ケンヂ『サブカルで食う 就職せず好きなことだけやって生きていく方法』(白夜書房)での、大槻ケンヂ氏と、前述の宇多丸氏との対談でもこのようなことが述べられている。



宇多丸「過去の蓄積と継承っていうことを、それなりにリスペクトしているのがサブカルの人って感じはしますよね。今の即物的なオタクの人たちって、『好きなものが好き』というだけでしょ。それって僕らの知っているサブカルとは態度として違うじゃないですか(後略)」

大槻「そう、どこかで遮断されたの。映画にしろ音楽にしろ、好きなジャンルがあったら過去にさかのぼって歴史をたどるっていう文化が綿々とあったはずなんだけど、それがどこかのタイミングで『今、面白ければいいじゃないですか』になっちゃった」



 対談の中で大槻氏が「『サブカルって要は説教オヤジなの?』って思われちゃいそうだけど(笑)」とも語っているが、かつてのサブカルには、知識を体系化しようというある種の歴史学的なアプローチがあったのは事実。時代の移り変わりにより、こうした視点がなくなってしまうとしたら寂しいことである。

(新田樹)


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