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真田丸の攻防 徳川方の敗因は

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2016年10月25日 14:28

  • おそらく最後の大戦になるだろうから、軍功上げようとして抜け駆けだらけだったんだろうなぁ。そこを幸村にいいようにやられた感はありますね。
    • 2016年10月25日 17:47
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  • 加賀藩の重役の一人が本多正信の次男である本多政重で、拙攻の口火を切り、正信は「そちの息子より、真田の小倅の方が何枚も上手だった」と嫌味を家康に言われるw
    • 2016年10月25日 17:33
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  • 姉川や小牧長久手、平八郎の武勇なんかを聞くと評価は全く変わりますが、真田丸の拙攻や2回の上田合戦を見ていると、徳川軍は戦が下手とイエヤス(*`・ω・)ゞ
    • 2016年10月25日 18:49
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  • 中世〜近世にかけての軍隊の火力では、いずれにせよ、堅固に防御された堡塁を、攻略するのは容易な事ではなかったと思う。
    • 2016年10月26日 11:04
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  • こうやったら勝てたとかタラレバ系言いだしたら、川中島だって迎え撃つ準備して謙信討ち取れたし、ミッドウェー海戦も火薬全部しまってゼロ戦展開して勝てたってなる
    • 2016年10月25日 20:17
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  • 戦なんて得てしてそんなもんだろう。 関ヶ原だって裏切りや傍観がなきゃ陣形的に西軍の方が圧倒的優位だったみたいだし。 それにしても毛利勝永の知名度の低さ…。
    • 2016年10月26日 00:55
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  • 真田は誘い出すのが巧だったんだろうなぁ。
    • 2016年10月25日 21:41
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  • …そりゃ、補充まんたんでじっくり攻めれば援軍のない城は落ちるがな。
    • 2016年10月25日 17:55
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  • そもそも外からの援軍が見込めない籠城なんてどんな金城湯池だろうと絶対に負けるんだから「じっくり攻めれば落とせる」のは当たり前だ馬鹿者
    • 2016年10月26日 07:06
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  • その局地戦の勝利を全体の勝利に出来なかった。最後まで秀頼が出陣しなかったのが豊臣の敗因。攻め手の各大名も功を焦って抜け駆けばかりして連携できなかっただけ。
    • 2016年10月25日 21:38
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  • 戦いを仕掛けるタイミングは攻撃側にあるが、戦いの方法は防衛側に主導権がある。城郭なんてのは攻められる事を前提に建築されてるもんだ。
    • 2016年10月26日 12:56
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  • そうだよ。ただ、目の前に武勲をブラ下げて攻めずにはいられないように仕向けるのが真田丸。早い者勝ちの手柄を眺めながら誰がのんびり土塁を作れようものか。
    • 2016年10月26日 02:52
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  • 徳川方は痴将もしくは恥将の集まりだっただけ…「馬鹿と鋏は使いよう」
    • 2016年10月25日 23:45
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  • 関ヶ原より十余年。戦の本質を知る兵が、少なかったのでしょう。
    • 2016年10月26日 01:07
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  • いや、単なる戦下手でしょ?計略事は上手くても、戦となると纏め切れない、まー小物です
    • 2016年10月25日 21:53
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