『ラ・ラ・ランド』は『セッション』を乗り越えたーーチャゼル監督がミュージカル映画で描いた夢

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2017年03月02日 06:03  リアルサウンド

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(c)2017 Summit Entertainment, LLC. All Rights Reserved. Photo credit: EW0001: Sebastian (Ryan Gosling) and Mia (Emma Stone) in LA LA LAND.Photo courtesy of Lionsgate.

 歌とダンス、恋と夢を描くせつない物語によって観客を魅了し、2017年アカデミー賞で監督賞、主演女優賞、撮影賞など最多6部門を受賞、旋風を巻き起こしたアメリカのミュージカル映画『ラ・ラ・ランド』。授賞式でいったん作品賞の受賞が発表されたものの、運営のミスによる勘違いだったことが発覚し、作品賞がまさに「夢」と消えるという前代未聞のハプニングも経て、多くの観客の心に刻まれる伝説の作品となった。ここではそんな、何から何まで夢のような本作の魅力を、深いところまで掘り起こしていきたい。


参考:『ラ・ラ・ランド』デイミアン・チャゼル監督が語る、ジャズと映画の関係


 「ラ・ラ・ランド」とは、映画産業が盛んな夢の街L.A.(ロサンゼルス)を意味し、歌いだしたくなるような「夢見心地」を表すことばでもある。自分にとって理想的でバラ色の未来のワンシーンを頭の中で思い描いた経験は誰にでもあるだろう。そのような願望世界は、本作がオマージュを捧げる『巴里のアメリカ人』や『雨に唄えば』が作られた時代、またはフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースがコンビを組んでいた時代を中心とするミュージカル映画が与える、現実の痛みから解放されたひとときの幸福感そのものである。そんな場所が頭の中に存在してくれるからこそ、人は現実の世界を生きてゆけるのだ。


 本作の冒頭、渋滞する朝の高速道路で、ドライバーたちが車外に出て歌い踊るシーンから、さっそくミュージカルがスタートする。そこで、L.A.市街へ降りようとする膨大な数の人々が皆、輝ける未来を夢見ていることが描かれる。いずれ知り合い恋に落ちていくだろう、ライアン・ゴズリングが演じる、ジャズの大物になるため奮闘する男と、エマ・ストーンが演じる、大女優を目指しオーディションを受け続ける、ふたりの主人公もまた、いまだL.A.に象徴される夢の街への狭き門をくぐれずに、渋滞する大勢の中で足踏みし、儚い夢を見続けている存在である。


 実際に道路を封鎖して行われた大規模なロケによって撮影された映像は、そんな夢のような楽しさを表現しながら、それとは真逆の現実感を帯びているようにも感じられる。それは、L.A.の禿げた山肌や、プール付き邸宅でのパーティー、駐車した車までの道や荒涼とした丘など、生活感やリアリズムを与えるノイズが混入されているからだ。大規模なセットを駆使した、かつてのハリウッド製ミュージカルとは異なり、この絵作りからは、主人公たちの未来に保証を与えてくれない、不穏な予感が底流し続ける。


 ようやくノイズが取り払われ幸福な映像世界に突入するのは、彼らがL.A.デートを楽しみグリフィス天文台を訪れた場面である。ふたりは宙に浮き、雲の上へと飛翔し、星の世界でダンスを繰り広げる。「音楽」と「映像」が作品のなかで同等の地位を占めるのがミュージカル映画であるように、音楽を愛するセバスチャンと映画女優を目指すミアが、ここで「完全な幸福」に到達したことで、本作はまさに複数の意味で「ミュージカル映画」としてはじめて力強く駆動し、光り輝く。そのひとときが終わると、資金繰り問題やオーディション落選などの現実に足を取られ、ふたりはすぐ現実へと墜落してしまうのだが。


 このように、ミュージカルが人気を集めていた時代の空気を本作で甦らせようとしたのが、デイミアン・チャゼル監督である。本作『ラ・ラ・ランド』は、じつは同監督の話題となった前作『セッション』よりも以前に企画していた作品なのだという。だが、MGM映画などに代表される大掛かりなセットや、きらびやかな衣装、スター俳優が出演する豪華ミュージカルの世界を再現するには、企画の実現力、演出の表現力など、監督自身の成長を待たなければならなかった。


 このミュージカル演出にユニークなアクセントを加えているのは、ときおり手持ちのカメラがせわしなく動き、対象に迫ろうとする撮影である。なかでも、ミアのダンスとセバスチャンのピアノ演奏を交互に写すシーンでは、『セッション』のクライマックスでも使われた鮮烈な技法、音楽の展開に合わせたカメラの超高速パン(首振り)が炸裂する。この撮影は、監督がカメラマンの背中をバシバシと叩きながら動かすタイミングを指示するというアナログな方法で、スタッフを楽器に見立て即興的にジャズを演奏するように、きわめて感覚的に行われているのである。


 ジャズドラマーを目指す音楽学校の学生と、鬼のようなサディスト音楽教師との熾烈な練習を描いた『セッション』は、チャゼル監督がかつて、偉大なミュージシャンを目指し、高校時代にジャズ・ドラムの練習に打ち込み、挫折した経験が活きているという。この作品から感じるのは、音楽への愛と憎しみが入り混じった複雑な感情である。おそらくチャゼル監督にとって音楽とは、自尊心を傷つけ、しかし絶えず誘惑を続ける悪魔なのではないだろうか。本作にも出演するJ・K・シモンズが演じた「フレッチャー先生」は、その象徴といえるだろう。『セッション』から放たれる、ただごとでない熱量とヒリヒリとした痛みは、監督にとって「音楽」がまだ癒えていない生乾きの傷であるからこその、ある意味で偏った描写からきているはずだ。


 本作では、ゴズリングが演じるセバスチャンの、やはりバランスの欠いた懐古的ジャズ観が披露されている。彼はミアとの生活のために、心ならずも電子機器を使用し、他ジャンルが融合するジャズ風バンドに加入し、プロのミュージシャンとして成功するものの、不満に苦しむ日々を送る。そしてミアに「あなたは好きなことをやってない」と、痛いところを指摘され、セバスチャンもまた彼女を傷つけてしまう。『セッション』や『ラ・ラ・ランド』における愛と憎しみの葛藤が「痛い」ものと感じるのは、我々観客も何かしら同様の傷を負っているからだろう。


 ミュージシャンのジョン・レジェンドが演じるバンドのリーダーに、狭量なジャズ観を指摘される場面があることから、本作では監督自身も、ここで描かれている偏った感情を客観視できており、前作よりは余裕をもって主人公の心情を描けているといえるだろう。しかし、バンドのライヴシーンでは、この現代的なバンドを明らかにグロテスクかつダサいものとして誇張して表現することで、相対的に、セバスチャンが愛する古い音楽を良く見せようとしている。この対立構造を作ることで、作品には壮大な規模の文化的葛藤を与えられているといえるが、現実の音楽の状況を作為的に単純化しようとする、かなり乱暴な描き方だといえる。このように強引に対立を生み出すことで作品に強い熱量を与えるという手法は、「テンポを忠実に守り高速で叩く」というドラム奏法に終始し、ジャズの魅力を限定的に先鋭化した『セッション』もまた同様である。このあたりは、チャゼル監督に対する評価が分かれる部分であろう。


 だが、チャゼル監督が本作で成し遂げた功績は、別の部分に負うところが大きい。オマージュというかたちで、様々な作品の要素を集め、ミュージカル映画というものの本質を、現代的な視点から総括し、『セッション』がそうであったように、個人的な物語を経て、我々観客が「自分の物語」だと思えるような普遍的なものに再構築するという試みを、作品内でやり遂げているのである。それは本作の最後にもう一度訪れる、セット撮影で撮られた、あまりにも幸福に現実が改変された、ミュージカル・シーンによって明らかになる。


 前述したように、セバスチャンは「音楽」の象徴であり、ミアは「映画」の象徴でもある。このふたりが出会い、愛し合い、「ミュージカル」が生まれる。チャゼル監督は、音楽の道を諦め、映画の世界で成功を得た。しかし、もしかしたら、この世ではない別のパラレルワールド(平行世界)では、音楽に一生を捧げる人生を送っていたのかもしれない。それは、チャゼル監督がおそらく一生ジャズを、音楽を愛し続けるように、ずっと心のなかに残り続ける、儚い夢である。しかし、空想の世界では、その夢にいつでも出会えるはずだ。チャゼル監督は、本作を作ることで、自分の二つの才能を、次元を超えて出会わせたのである。(小野寺系)


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  • ミュージカルファンとしては病みつきになりそうなので、サントラを買って聴き込んで、公開中にもう一回観に行くかもしれない……。
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