『ケータイ大喜利』から生まれた伝説のハガキ職人の半生、人間関係に悩み自殺まで考えたときオードリー若林が...

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2017年04月09日 01:12  リテラ

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リテラ

『笑いのカイブツ』(文藝春秋)

 本日の放送をもって『着信御礼!ケータイ大喜利!!』(NHK)が約12年で番組の歴史に幕を下ろす。



 ご存知の通り、この番組は視聴者からの大喜利の投稿で成り立っており、番組でネタが採用され、それが審査員の最高評価を得れば、そのハガキ職人は「ルーキー」から「初段、一段、二段、三段......」といった具合に一段ずつ段位が上がっていくシステムになっている。長い番組の歴史のなかで何回かルールの変更はあるが、基本的には8回段位を上がると「レジェンド」という称号が与えられる。一回の放送で読まれるネタが30ほどしかないのに対し、番組に寄せられる投稿の数は30万ほど。採用されるまでに途方もない壁があることを考えると、レジェンドになることがどれほどすごいことなのかがよくわかる。実際、12年の番組の歴史のなかでも、レジェンドは100名ほどしか生まれていない。



 レジェンドとなった投稿者のなかには、後に芸人やライターになった人もいるが、そのなかのひとりが「MURASON侯爵」ことツチヤタカユキ。そんなツチヤが自らの人生を振り返った私小説『笑いのカイブツ』(文藝春秋)を出版、話題を呼んでいる。その小説は、笑いに青春を捧げた不器用な青年による、人間関係をめぐった葛藤の物語だった。



 ツチヤが『ケータイ大喜利』でレジェンドになろうと決意したのは高校1年生のとき。そこでまず彼は、番組で採用されたネタをすべてノートに書き起こして分析、ボケのパターンなどを研究した。そしてネタを書き始めたのだが、採用される段階にすらなかなか辿り着くことができない。高校卒業までの間に何百とネタを送ったが、結局ひとつも採用されることはなかったという。



 普通なら諦めてもおかしくない成績だが、ここからのツチヤの努力がまたすごい。彼は1日に100個のボケを出すことをノルマに設定。その練習は高校を卒業してフリーターになるとどんどん増えていき、1日500個にまで到達。そして、19歳のときに初めて採用される。そこからは1日のノルマが1000個、2000個とどんどん増えていき、最終的には、起きている時間は常に大喜利のボケを考えているようになっていったという。「今日は何を食べたのか」、「風呂に入ったか否か」ということすらまともに思い出せないという普通ではない精神状態になっていったが、すべてを捨てて大喜利に打ち込んだその努力は報われ、21歳のとき念願のレジェンド昇格を果たす。



 そして、彼はその腕を見込まれて吉本の劇場作家見習いになり、プロとしてお笑いの世界に飛び込むのだが、ここで壁にぶちあたる。人間関係である。



 ツチヤは一日のすべてをネタづくりに捧げる生活を、劇場作家見習いとなった後も続けていく。資料室にある先輩芸人たちのライブ台本を借りては勉強を重ねる一方、同期の作家見習いと雑談などせず、空き時間にはひたすらネタを書き続けた。努力するのはいいことだが、"普通"の感覚で見れば「常軌を逸した」と表現しても言い過ぎではないであろうネタづくりへの情熱は、実は必ずしも評価されるものではなかった。劇場作家にとって必要なスキルはネタづくりの技術というよりもむしろ、先輩や偉い人の懐へ自然に入り込めるコミュニケーション能力であった。



〈僕から見えたその世界は、端的に言えば、「おもしろいが一番じゃない世界」だった。

 先輩に取り入り、社員さんに媚を売り、舞台監督の懐に入る。それが出世への近道だと知った時、僕の中で、構成作家という職業においての敗北が決定した。

 僕にとってそれは、つまらない世界だった。おまえらなんかのつまらなさに、感化されてたまるかと思った〉



 結果的に、ツチヤと他の作家見習いたちとの間で軋轢が起こり、それは舞台監督や他の社員との関係にまで波及。最後はクビを言い渡されることになってしまった。



 ネタづくりには努力を惜しまず才能もあったはずなのに、想定外の理由での挫折。しかし、笑いに取り憑かれたツチヤはそこから思わぬ道を歩み出す。ラジオや雑誌の大喜利コーナーにネタを送りまくるハガキ職人として生まれ変わったのだ。ネタをつくり、それを世間に発信したい。その欲求を満たすのに最適だったのがハガキ職人という選択肢だった。



 それにあたり彼は『ケータイ大喜利』時代のペンネームは捨て去り、本名であるツチヤタカユキ(土屋祟之)の名で、『伊集院光 深夜の馬鹿力』(TBSラジオ)、『オードリーのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)、「週刊ファミ通」(エンターブレイン)内の大喜利投稿コーナー「ファミ通町内会」、「週刊SPA!」(扶桑社)内の大喜利投稿コーナー「バカはサイレンで泣く」といった、ネタのレベルが高く、採用されるだけでも難しい投稿コーナーで瞬く間に名前を轟かせていく。



 そんななか出会ったオードリー若林正恭との関係が、もう一度彼をプロのお笑いの世界へと引き戻していく。投稿されるネタからツチヤの才能を見出した若林は彼を東京に呼び寄せ、構成作家として一緒にライブの台本をつくる。しかし、結局、二度目のリベンジも失敗に終わってしまう。ライブを前にしてツチヤは急きょ大阪に帰ってしまうのだ。理由は吉本の劇場作家を挫折したときと同じ「人間関係不得意」だった。



〈あの日見た光を追いかけ、東京に行った。

 そこで僕は、知ることになる。

 ディレクターにとって、僕の存在などゴミに等しいということを。

 ラジオ局では、ただ居るだけという、中途半端な状態が、何ヶ月も続いた。

 見兼ねた他の構成作家から「仕事をもらうためには、ディレクターの懐に入れ」とアドバイスされた。

「とにかく全員に媚びて、気持ち良くさせれば仕事がもらえる」と言われた。

 その時、脳裏に浮かんだのは。吉本の劇場で、舞台監督の肩を揉む、構成作家見習いの奴だ。それが浮かんだ瞬間、心底吐き気がした。

 奴になりたいか? 思い出しただけで、心底吐き気がした。

 だけど、あれが正しい構成作家の戦い方だったのだ。いの一番に舞台監督の懐に入った奴が正しくて、劇場で人間関係を度外視して、毎日ネタばかり作っていた僕は間違いだったんだ。

 この世界で生きて行くということは、奴になるということでしかないのだ。

 でも、よくよく見渡してみれば、業界全体が、そんな人間を是としていた。

 いや、世界全体が汚くて醜くて不純な人間を是としていた。

 僕の中の"正しさ"は、この世界とズレまくっている。

「お笑いをやめる」と初めて口にしたのは、その頃だった。

 僕は、あの人にそう告げたのだった。

「おまえには才能がある」と言ってくれた言葉は、心臓が破裂しそうなくらい痛かった。

「期待して下さっていたのに、僕は何もできませんでした」

 大阪に帰る前の日に、僕はあの人に言った。

 すると、あの人は「おまえは十分期待に応えてくれた。おまえがいなかったら、このスケジュールで、ここまでネタを作れなかった」と言って褒めてくれた〉



 大阪に帰ったツチヤは、クラブのホールスタッフなど身体に合わないバイトを転々とし、最終的には自死を計画するほどの精神状態にまで追いつめられてしまう。



 しかし、笑いに殉じ、表現に青春のすべてを捧げたツチヤはそう簡単に死ぬことなどできない。そこで遺書として、自分と笑いとの関係や自分なりの笑いの方程式を明かすブログを投稿し始める。それが瞬く間に話題となり、連載のオファーが舞い込み、そして本書『笑いのカイブツ』の企画へと発展していくのだった。



 まるで太宰治のような話だが、才能はあるものの、業界の偉い人に取り入ったりといったことがどうしてもできない不器用な性格の彼にとって、小説という表現の選択は肌に合っているのかもしれない。昨年末『M-1グランプリ』で優勝した銀シャリの漫才作家のひとりにツチヤが入っていたという情報はネットで大きな話題となったが、インタビューでは「今も毎日机に向かって書くことだけは自分に課していて、今、書いているのは小説。内容はまだ言えない状態ですけど、完全なるフィクションですね」(ウェブサイト「日刊SPA!」)とも語っており、文筆業はこれから先もツチヤの活動の中心のひとつであり続けるようだ。



 今日で『ケータイ大喜利』は終わってしまうが、10年以上番組が続くなか、この番組をきっかけとしてこのように笑いに取り憑かれた人間がいる。そして、それはツチヤひとりではないだろう。そんなことに思いを馳せながら見ると、最終回もより感慨深いものになるかもしれない。

(新田 樹)


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  • テレビの「お笑い」がつまらなくなった理由がそこにあるのは、昔から言い伝えられていた話。せめて野武士集団だった頃のテレビ創成期ならなあ…。
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