アイシャを覚えていますか? 金正男暗殺実行犯のインドネシア人女性の運命は

0

2017年06月05日 14:43  ニューズウィーク日本版

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

ニューズウィーク日本版

<クアラルンプール国際空港を舞台にした金正男暗殺事件。一時はマレーシアと北朝鮮の間も緊張したが、結局、北朝鮮国籍の容疑者や重要参考人は無事帰国。実行犯として残った女性2人の裁判で幕引きになるのか>


北朝鮮の金正恩・朝鮮労働党委員長の異母兄、金正男氏の暗殺事件で実行犯としてマレーシアで逮捕、殺人罪で起訴されているインドネシア国籍とベトナム国籍の2人の女性に対する裁判手続きが5月30日にマレーシアの首都クアラルンプール近郊のセパン地方裁判所で開かれた。


両被告が裁判所に出廷するのはこの日が3回目となるが、入廷の様子が報道陣に公開されるなどその姿が確認されたのは逮捕後初めて。両被告は不測の事態に備えて防弾チョッキを着用、周囲を武装した警察官に囲まれて伏し目がちに裁判所に入る様子が撮影された。


同日の裁判手続きでは、殺人容疑の起訴で有罪判決が下された場合には最高刑が死刑という重罪に当たることから、今後の裁判が地裁ではなく上位の高等裁判所に移管して行われることが決定された。初公判の日程などは1カ月以内に追って決定、通知されるという。


同日の手続きでは両被告は発言の機会がなかったが、弁護側からは検察側が証拠開示に非協力的で公正な裁判に影響を与えるとの不満が表明された。検察側は事件当時の防犯カメラの映像などを証拠として保有しているが、弁護側に開示していないと弁護団は主張した。これに対し検察側は裁判に向けて必要に応じて証拠は開示していく予定で、問題とは考えていないとの姿勢を示した。


2被告はスケープゴート?


起訴状などによると事件は今年2月13日、クアラルンプール国際空港で2人の女性被告が金正男氏の顔面に猛毒神経剤「VXガス」を塗り付けて殺害した。2人の実行犯のほかに北朝鮮国籍の男性、在クアラルンプール北朝鮮大使館員など8人が事件への関与を疑われたもののいずれも証拠不十分などで起訴されずに北朝鮮に全員が帰国したとされている。


金正男暗殺事件に関して逮捕、起訴されたのは結局実行犯の女性2人だけという異例の捜査経過をたどり、2人の裁判が間もなく本格的に始まることとなった。


2被告はこれまで金正男氏の顔面に液体物を塗り付けたことは認めているが、あくまで「日本のテレビのいたずら番組への出演と思っていた」「致命的な毒物とは知らされていなかった」などとして殺意を完全に否定している。しかし、検察側は事前に北朝鮮国籍の男性から手順の説明を受け、空港内で練習をしていたことや、実行直後にトイレで手を念入りに洗っていたことから顔に塗り付けた液体の正体も把握していたなどとした「殺意はあった」と認定、殺人罪での起訴に踏み切った。


インドネシア国籍のシティ・アイシャ被告(25)と暗殺事件に関するインドネシア国内での報道は、逮捕時の「アイシャは国際的陰謀の犠牲者」「アイシャを救済せよ」という同情的でセンセーショナルな論調からは時間の経過とともに沈静化し、現在では事実を淡々と伝える姿勢に変わってきている。


インドネシア語紙「コンパス」は高裁への審理移管を伝える記事の冒頭で「まだあのアイシャを覚えていますか」という文章で読者に問いかけた。これはアイシャ被告や金正男暗殺事件への国民の関心が薄れていることを図らずも示している。


そして記事の中でアイシャ被告に面会しているクアラルンプールのインドネシア大使館のユスロン・アンバリ領事がインドネシアのメディアに対してアイシャ被告が両親に宛てて「心配しないで」などと書いた手紙を公開したことを伝えている。


同紙の報道によると、アイシャ被告は手紙の中で「私は元気です。大使館の人など支援してくれる人が沢山います。どうか心配しないで体を大切にして、私のために祈って下さい」などとしたうえで裁判について「(裁判のために)こちらに来る必要はありません。裁判は早く終わって家に戻ることができると信じています。だから心配しないでください。あなた方の子供である私から愛をこめて(この手紙を)送ります」と書かれている。


金正男氏の暗殺事件は、混雑する国際空港が北朝鮮の「要人」である人物を猛毒ガスで殺害するというセンセーショナルなニュースとして発生当初は「国際的なテロ」として内外から大きな注目を浴びた。


舞台となったマレーシアは当局の捜査を批判し、非協力的な北朝鮮に対し「国交断絶も辞さない強い姿勢」をナジブ首相が示し、容疑者として北朝鮮人1人を逮捕、重要参考人とされる北朝鮮国籍の複数の人物が北朝鮮大使館内に「籠城」する事態となった。北朝鮮国内のマレーシア人も出国が妨害されるなどお互いに自国民が"人質"にとられる形となり、一時は膠着状態に陥った。


2人の被告はスケープゴート?


その後事態は急転、逮捕された男性は証拠不十分で釈放、北朝鮮に留め置かれたマレーシア人の帰国と北朝鮮大使館内の重要参考人らを"交換"する形に進展。北朝鮮国籍の全員がマレーシアを出国して中国経由で帰国した。金正男氏の遺体も家族が引き取りを拒否したためか死因の調査、使用毒物の分析など詳細が公表されることもなく北朝鮮に移送されてしまった。


当時はナジブ政権が経済援助などで関係が緊密化していた「中国の介入」が背景にあったとの見方が強かったものの、「報道の自由」が確立されていないマレーシアでは政権批判もほとんどなく、「知らないうちに事件は忘れられ、2人の女性被告だけがスケープゴートとして暗殺の罪を問われる形になった」(マレーシア人記者)として、2被告の裁判で事件の幕引きが図られようとしている。


今後始まる裁判では2女性被告の事件への関与と動機などが主に争点となるが、北朝鮮関係者が法廷に不在では暗殺事件の政治的背景や犯行グループの素性、VXガスの入手経路などが明らかにされることはほとんど不可能といえる。


判決次第では再びインドネシアでアイシャ被告に関する報道が盛り上がることも予想されるものの、それがマレーシアの司法手続きに影響を与えることは難しいだろう。


こうした事態は、暗殺事件の「黒幕」とされる北朝鮮、舞台となったマレーシア、影響力を行使したという中国、いずれにとってもシナリオ通りの都合のいい展開と結末といえるだろう。


[執筆者]


大塚智彦(ジャーナリスト)


PanAsiaNews所属 1957年東京生まれ。国学院大学文学部史学科卒、米ジョージワシントン大学大学院宗教学科中退。1984年毎日新聞社入社、長野支局、東京外信部防衛庁担当などを経てジャカルタ支局長。2000年産経新聞社入社、シンガポール支局長、社会部防衛省担当などを歴任。2014年からPan Asia News所属のフリーランス記者として東南アジアをフィールドに取材活動を続ける。著書に「アジアの中の自衛隊」(東洋経済新報社)、「民主国家への道、ジャカルタ報道2000日」(小学館)など


【お知らせ】ニューズウィーク日本版メルマガリニューアル! ご登録(無料)はこちらから=>>



大塚智彦(PanAsiaNews)


    前日のランキングへ

    ニュース設定