家族でなかった者たちが作る家族──ウガンダの難民キャンプにて

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2017年07月25日 17:32  ニューズウィーク日本版

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ニューズウィーク日本版

<「国境なき医師団」(MSF)を取材する いとうせいこうさんは、ハイチ、ギリシャ、マニラで現場の声を聞き、今度はウガンダを訪れた>


これまでの記事:「いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く 」


ビディビディのゾーン2から


翌日早朝、平原の向こうから赤い朝日が上がりつつあるのを見ながらフロントあたりへ行ったが、まだそこには固く錠が閉まっていて入れなかった。


そのうち近くから明るい音楽が聴こえ出したので目をこらすと、大樹に隠れて一階建ての教会らしきものがあり、そこでゴスペルめいた曲が歌われているのがわかった。ドライバーのボサはイスラム教徒だし、様々な宗教が入り交じっているのだなと実感していると、そのボサ・スワイブと『国境なき医師団(MSF)』広報の谷口さんもやって来て、タイミングよく食堂が開いた。


焼いていないパンと、合成樹脂製のポットにお湯、インスタントコーヒーの粉が入った瓶、そして妙に平たいオムレツが自動的に運ばれてくる。


ボサに聞けば、ウガンダでは姓と名前の順が日本と同じで、名前だと思っていたスワイブが苗字なのだった。4人の子供がいて、3女1男。レストランで支配人をしている奥さんより早く仕事に出て、早く帰って料理を担当しているのだという。長くMSFで活動しているが、報酬や待遇のことで文句を言う人もいるとボサは言い、しかしMSFへの愛があればすべてはうまく行くのだと強調した。なんだか男女の話みたいだなと俺は思いながら、パンをもぐもぐやった。


2012年にMSFに参加したというロバート・カンシーミというウガンダ人男性がやってきて、約束通り8時に共に出発。まず5分で「薬局」に着き、そこで車を乗り換えてビディビディ居住区まで、途中でマンゴーの樹の下で開かれている青空教会の朝のミサなど見やりながら15分ほど行く。


「ゾーン2」と呼ばれる地域には、例の『国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)』の遮光テントがあちこちにあり、その脇にすでに居住してから時間が経つ人々の土壁とわらぶき屋根の家などが建っていて、隣接した小さな畑が耕されているのもわかった。家を建てるために材木を運んでいる者もいて、まさにそこは居住区としての落ち着きを見せていた。


それぞれの地域にはマーケットエリアがほとんど自然に出来てきて、そこで食物や衣料の売買が行われる。実際、俺たちが移動する車の横には点々と屋台が作られ、品数は少ないながら物が売られていた。人類がどのように定住していったかの見本を目の前に広げられているような気分でもあり、広大な平野で現在も続行している移住実験計画という趣もあった。


午前9時前には、「ゾーン2」の外来診療所に到着した。ロバートから担当者にバトンタッチしてもらって説明を受けると、応急措置のための部屋があり、その奥に心理ケアの部屋があってすでに精神科医と臨床療法士がおり、さらに薬を管理する部屋などなどが並んでいた。


建物の手前側に戻ると、そこにトリアージのための部屋があって子供や母親がベンチに座って順番を待っていた。すべては木材と遮光シートで組み上げられている。1日の診療数はおよそ130人から150人とのことだった。


並ぶ母子たち。しっかりした服装の子もいる。


外来診療所にはさらにまだまだ部屋があって、血液検査などが出来る部屋に3人の看護師が待機していたし、その向こうには母親と子供が10床ほどあるベッドの幾つかを占めていた。担当看護師のシバという若い女性の話では、例えば床の敷物の上に座っている幼児は感染症の疑いがあり、検査をしているところ。しかし熱は下がっているから緊急性はなくなったのだという。


シバはおしゃれな髪形をしたいかにもアフリカの若い女性だったが、その白いポロシャツに濃紺の文字で『誰もが健康でいられることは人間の基本的権利である』と縫い込まれていて、その組み合わせがまたイケていて俺は思わず後ろを向いてもらって写真を撮ったほどだ。


さらにラジエーター室も洗濯室もスタッフの食事を作る調理場も、木材で組んだ小さな掘っ立て小屋ながら有効に機能している様子だった。そして、それら外来診療所のすべての施設が初めはMSFによって作られ、今では国際救援センターに引き継がれているのだそうだ。


命の水


タンクの周囲に並ぶ人々。


ただし、赤土の上を歩いて少し行ったところにある、大きな水配給タンクだけはいまだMSFの管理下にあるとロバートが言うので、そこを担当しているラシュール・クルバという水質管理担当者に会いに行った。


タンクはそれほど高さはなく、俺の背の2倍あるかどうかで、貯水用の布で丸く囲まれていて、そこからパイプが敷かれ蛇口につながっていた。あたりには持ち運び用の灯油タンクがびっしり並べられていて、たくさんの女性たちが給水をしに訪れていた。


水質管理担当者ラシュールはシバと同じくとても若く、生き生き働いているように見えた。彼の話によると、水は難民たちだけでなく近隣の住民にも使われていて、1日に3回MSFが掘った井戸からタンクローリーで運ばれて供給され、当然その間ずっと彼によって水質を調査されている。飲む者すべての命に関わる大切な資源だから、彼は付近の人々を直接生かしているようなものだった。ちなみに谷口さんによると、日本人の1日の水使用量が300リットル。対して難民は国際的な緊急時の供給目標値が15リットルで、時には10に満たない現実もあるのだという。


前にも書いたけれど、水が大切だからこそ難民たちは細かい住所をタンクの番号であらわしていて、ビディビディ居住区全体にクルバの管理するようなタンクが20あまり、そして他にも黒い貯水タンクがあちらこちらに備わっているのだそうだ(こちらはまた別の団体による水供給である)。


タンクはこの大きさ。


入院病棟へ


汗ばんだ表情で言葉少なに説明をしてくれるラシュールと写真を撮って彼の偉大な仕事を称え、元の外来診療所に戻ったのが9時半。


そこから今度はMSFがいまだに管理している入院病棟を訪問することにした。こちらは「ゾーン4」の中にあるそうで、移動に一時間ほどかかった。途中でよく見かけたのは土壁で出来た各戸の前に太陽光パネルが立て掛けられているような光景で、それは住人の消費電力量ならばそれで十分なのかもしれなかった。前近代的な家の前の、近未来的な自然エネルギー技術という組み合わせはひとつの希望を俺に与えた。


入院病棟は左右ふたつの建物(もちろん木材と遮光の布で出来ている。まるでそれがアフリカの一部の伝統であるかのように)に分かれ、その間の廊下の奥にさらに建物があるという、どこか美学がありそうな形式で作られていた。


妊産婦ケアが中心だということで、感染症やマラリア、HIVへの対応もしているし、産後すぐのお母さんたちがベッドで休んでいる姿も見た。その中に乳幼児を抱いた若い女性がいて、すぐ横のベッドにはもっと若い、おそらく10代だろう女の子が二人、腰をかけて静かに話しかけていた。


その二人の女の子のうち、''ビッキー・ジョジョはきれいな発音の英語を話すので、ふとした挨拶から始まって彼女を通訳としたインタビューになった。子供を抱いているのは26才のスーザン・ジュルさん'''で、つい数日前に赤ん坊が生まれたのだそうだった。しかし、どこからいらしたんですか?と質問すると、スーザンさんの顔から微笑が消えてしまった。


「南スーダンからです」


リールという土地から徒歩で国境を越えたスーザンさんは、お腹に子供がいる状態で他の3人の子供を連れて来たのだそうだ。


俺たちには聞かねばいけないことがあった。


「どうして逃げていらしたんですか?」


まだ訳されないうちに、あたりに沈黙が漂った。そのすぐあと、ビッキーが小さく笑った。訳しにくいことを言われてしまったというとまどいと、俺たちに罪悪感を与えたくないという気配りがわかった。


ビッキーがスーザンさんに翻訳し、もはや表情を変えないスーザンさんが淡々と答えるのをビッキーが俺たちに伝えた。ビッキーは言葉を伝える間にもスーザンさんの顔をじっと見ていた。


銃撃を受けたそうだった。激しい銃撃を。


そこで兄弟姉妹は殺された。


埋葬も出来ないまま、彼女は逃亡した。


子供たちを連れてウガンダに来た。


けれどまだ名前もない乳児は熱気味で、自分からも子宮痛が消えない。


苦しい状況だった。そしてその苦しさはスーザンさんだけでなく、何事もなくふるまっているビッキーたちにしても同じだろうと思った。たくさんの家族を亡くし、自分たちも暴力をふるわれて今があるのだろう。


広報の谷口さんが俺のかわりに質問した。


「厳しい問いになりますが、体が治ったら何をしようとお思いですか?」


するとスーザンさんは即答した。ビッキーが訳した。


「畑を耕したい。食べ物を作ります」


一方で、ではビッキーたちはなぜ彼女のそばに付き添っているのだろう。


スーザンさんと知りあいか聞いてみると、この入院病棟で出会ったのだという。


ビッキーの横に座っている女の子が流産して治療中であり、その10代の彼女に付き添って、ビッキーは病院に来た。そもそも彼女たちも難民居住区で知り合ったのだった。


そして二人は、自分たちと同じように苦難に襲われているスーザンさんを見かけ、隣のベッドに腰をかけて彼女に話しかけていたのだ。


「家族でなくても」


と谷口さんが言った。そのあとの言葉は涙とともに外に吐き出された。


「家族のように寄り添っているんです」


そして谷口さんは泣いてしまったことを急いでスーザンさんたちに謝り、心をこめてこう言った。


「どうか皆さんが故郷に帰れますように」


俺もそれしか考えていなかった。


ビッキーは明るい顔で言葉を訳し、ありがとうとにこやかに答えた。


俺にはうなずく以外、出来ることがなかった。


いつかこの利発な、優しい、どうか平和な暮らしを取り戻して欲しいビッキーを主人公にした短編小説を書きたい。何になるわけでもない。しかしせめてそういう苦しみの中にいて微笑んでいる10代がいること、彼らが願う通りの幸福が訪れる様を、他の誰かに伝えたい、と俺は思ったのだ。


ビッキーたちの写真も撮ったが、むろんここでは紹介しない。どうかたくさんの想像力で彼女たちを身近に感じて欲しい。


また会いたい。


続く


いとうせいこう(作家・クリエーター)


1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE」


※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。



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