2050年の日本文化はサブカルから生まれ、オタクに支えられていく

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2017年08月22日 16:13  ニューズウィーク日本版

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ニューズウィーク日本版

<未来の日本には、100歳を越える多くの高齢クリエーターとその創作活動を支えるたくさんの老荘オタクがつくり出す文化が花開く>


この夏、ロンドンの大英博物館で開かれた『北斎―大波の彼方へ―』展は盛況だった。会期はたっぷり3カ月もあったのに、入場券はすぐに売り切れた。会場内はラッシュ時の新宿駅に負けない混雑だったと聞く。


訪れた人々の年齢や人種・民族、国籍も多彩だった。もしも浮世絵師・葛飾北斎が生きていてこの様子を見たら、遠い異国での自分の人気に仰天したことだろう。彼が世を去ったのは明治維新の19年前、まだイギリスを訪れたことのある日本人が数えるほどしかいな


かった時代である。


北斎が見たらもっと仰天しそうな展覧会もある。伝説のロックバンド、ピンク・フロイドの足跡をたどる大回顧展だ(同じくロンドンのビクトリア・アンド・アルバート美術館で10月1日まで開催中)。その展示物の中に、「富嶽三十六景」中の名作『神奈川沖浪裏』をあしらったドラム・キットがある。72年のツアーで来日した際にドラマーのニック・メイソンがこの絵に感動し、特注したものだとか。


文化の産物には、時空を超えてはるか遠くまで旅するものもあれば、しばし大人気を博した後に忘れられていくものもある。衰えることのない北斎の魅力は前者の例、日本の文化的足跡に持続力がある証拠だ。あいにく日本の経済的足跡は(少なくとも相対的には)小さくなってきたが、北斎人気の持続力を生んだ要因を考察すれば、2050年の文化状況を予測する上で何らかの参考になりそうだ。


【参考記事】日本の先進国陥落は間近、人口減少を前に成功体験を捨てよ


時代と共に生きる芸術家


第1に、北斎の浮世絵はシェークスピアの演劇と同様、1人の作者が自分だけで生み出したものではなく、固有の文化的背景を持つ1つの時代の産物だった。北斎は高名な浮世絵師に師事したし、他の大物絵師からもさまざまな影響を受けていた。


そして絵師たちは、意欲的な版元や才能ある彫師・摺師たちで構成する高度な芸術インフラに依存していた。しかも一方には、彼らを支える資金力と暇と審美眼を有する人々がいた。ある意味では浮世絵もシェークスピア劇も、創作者と消費者の共同制作物だった。


第2に、浮世絵は花柳界のための娯楽と位置付けられていた。つまり高尚な芸術作品として認知されていたわけではない。現に北斎自身も、艶本の中の『蛸と海女』のような春画(江戸時代のポルノ画)を描いている。


だから、仮に江戸幕府が「クールヤマト」構想を打ち出してソフトパワーの輸出に取り組んだとしても、そこに浮世絵が含まれることはなかっただろう。実際、1860年代の日本に上陸した西洋人たちは、浮世絵版画に対する評価の低さに驚愕したという。


第3に、浮世絵には当時の最先端技術が使用されていた。鮮明な色彩で質の高い木版画が制作され、低コストで量産されて販売された。北斎も、輸入が始まったばかりのプルシャンブルー(紺青)という顔料を試している。『神奈川沖浪裏』の鮮やかな青い波の色がそれだ。西洋絵画の遠近法も、北斎は必要に応じて採用していた。対照的に、紙や布地に伝統的な手法で描かれた伝統絵画は一枚一枚が高価で、もっぱら政界や宗教界の一部エリートの専有物となっていた。


第4に、北斎は75歳で改号して「画狂老人卍」を名乗り、自分の腕前は110歳で頂点に達すると豪語した。実際はそこまで生きなかったが、90歳で世を去るまで生涯現役だった。つまり、イギリスのビクトリア朝時代の批評家ウォルター・ペイターが芸術家の理想とした「宝石のような炎を燃やす」反抗的な若者のタイプではなかった。


だが芸術の世界には別な伝統もある。老いてなお切磋琢磨し続けることをよしとするものだ。北斎はまさにそのタイプで、20世紀のパブロ・ピカソもそうだった。今の日本で言えば、映画監督の新藤兼人だ。彼は80歳にして趣味の麻雀と野球観戦を断ち、100歳で死ぬまで映画作りに邁進した。


世界中がインターネットでつながる今の時代と、北斎の生きた18〜19世紀では隔世の感がある。しかし、全く変わっていないものもある。芸術への感動と、芸術家の才能だ。一方で文化状況は刻々と変化し続け、かつて制作者と消費者の間にあった親密な関係を、大量消費とグローバル化の時代に求めることは不可能に近い。


今をときめくJay-Zやケイティ・ペリー、あるいはマット・デイモンらの名は時とともに忘れられていくだろう。何十年も前に温泉宿で出合った名物料理の味は末永く思い出に残るだろうが、マクドナルドのハッピーセットを最後に食べたのはいつかを覚えている人はめったにいない。


【参考記事】マーガレット・ハウエル、ミニマリズムの女王と日本の意外な関係


長寿のクリエーターが続々と


時空を超えて生き続ける力のある文化的産物は、70億の地球人全てを満足させるたぐいのものではあるまい。生き残れるのは、認知度は低いが活力のあるサブカルチャーから生まれ、お金も暇もある大勢のオタクに支えられたものだけだろう。


かつて漫画やアニメは、純文学と伝統芸術に固執する日本の知識人から軽蔑されていた。しかし今は海外で、どちらもクールな日本文化として支持されている。宮崎駿の一連の作品や『君の名は。』『この世界の片隅に』などのアニメはその好例だ。いわゆる「ゲーム」も、いずれアニメ並みの高い評価を受けると考えられる。


テクノロジーは表現の限界を押し広げる。映画や漫画の世界も、2050年頃にはもっと全感覚的で双方向的なものに、つまり作り手と消費者が何らかの形でコラボするものになっている可能性が高い。バーチャルリアリティーの技術も、単にわくわくドキドキ感を増幅させるだけでなく、情緒的にも精神的にも深みのある作品を生み出せる水準に達していることだろう。待たれるのは次代の葛飾北斎、次代の黒澤明、次代の宮崎駿だ。


しかし今まで同様、新しいものが公に認知されるまでには時間がかかる。それらの作品が賞を獲得し、学問の対象となる頃にはもっと新たな表現方法が誕生しているのではないか。最初に評価されるのは海外においてかもしれない。浮世絵も黒澤映画もそうだった。次代のクリエーターが人間国宝に指定されるのは、まあ100年先だろう。


しかし案ずることはない。未来の人間国宝はもう、この世に生を受けているかもしれない。あるオランダの研究によれば、2070年頃には人の最長寿命が125歳に達するという。しかも、最初に125歳の壁を突破するのは日本人女性だと予想されている。


そうなれば北斎超えだ。北斎は110歳で最高傑作を描くと豪語したが、2050年の北斎は125歳まで描き続けるかもしれない。1人の「画狂老人」ではなく多くの「芸狂老女」がいて(何人かは男もいるだろう)、その創作活動を支えるたくさんの老壮オタクがいる。2050年にはそんな文化が花開いているはずだ。


<本誌2017年8月15&22日号「特集2050:日本の未来予想図」より>


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ピーター・タスカ(評論家)


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