ロヒンギャを襲う21世紀最悪の虐殺(前編)

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2017年09月20日 16:22  ニューズウィーク日本版

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ニューズウィーク日本版

<祖国ミャンマーでやまない民族浄化、そこから逃れた異国でも続く「無国籍難民」の知られざる苦悩>(本誌2017年3月28日号掲載の特集記事より転載)


ホロコースト――言わずと知れた第二次大戦中のドイツ・ナチス政権による国家的・組織的なユダヤ民族の迫害と殺戮のことだ。だが、国家的・組織的な民族迫害は過去の歴史ではない。今もアジア、それも民主化したはずのミャンマー(ビルマ)で起きている。この国で続く悲劇は現代のホロコーストと言える。


その犠牲者はロヒンギャ。ミャンマー南西部のラカイン州を主な居住地とするイスラム系少数民族だ。国民の95%を仏教徒が占めるミャンマーにおいて宗教的少数派だが、古くからこの地に暮らす。にもかかわらず、軍事政権が「ミャンマー人」を定義した82年の国籍法によって無国籍状態に置かれ続けている。


その結果、政府や軍による暴行や強奪、殺戮の対象となり、祖国を脱出する人々が後を絶たず、「世界で最も迫害されている人々」とも呼ばれる。


実際、迫害から逃れるため外国を目指すロヒンギャ難民は拡大の一途をたどる。しかし、ようやく故郷を逃げ出した彼らを待つのが密航業者の「奴隷船」と「難民収容所」だ。


15年には、ロヒンギャ難民をすし詰めにした船が海上で密航業者に放置され、漂流する事件が発生した。多くの場合、ミャンマーから目的地のタイまで船旅で長時間かかる。その間、灼熱の太陽にさらされ、食事は少しの米だけ。水もわずかしか与えられず、餓死すれば海に捨てられる。


たどり着いたタイ国内の密林の収容所で、男性のロヒンギャ難民は暴行、女性はレイプされる運命が待っている。タイの漁船で奴隷労働を強要される実態も発覚した。


難民受け入れやイスラム差別、不法移民の国外追放......現在、世界で政治問題化しているあらゆる悲劇を抱え込んだような存在ゆえ、ロヒンギャは難民問題として報道される。だが、本当に深刻なのは、ミャンマー政府がロヒンギャを標的に進める民族浄化策だ。


新たに始まった残虐過ぎる民族浄化


15年の総選挙で、ノーベル平和賞受賞者でもある民主化運動リーダーのアウンサンスーチーを事実上の元首とする新生ミャンマーが船出した。軍事独裁政権に別れを告げ、民主化したはずの新政府だが、スーチーと与党・国民民主連盟(NLD)はロヒンギャ迫害を止めようとせず、虐殺行為は今も続いている。


直近の悲劇は昨年10月に始まった。「ロヒンギャ武装集団による国境警官の殺害事件」を口実に、ミャンマー政府軍がラカイン州で攻撃を開始。ロヒンギャが住む3つの村で合計430の住居が軍隊によって破壊され、村全体が焼き打ちを受けた。衛星写真に映る襲撃後の村は住居が消え、更地のようになっている(下写真)。


軍に焼き打ちされる以前のロヒンギャ居住区(上)とその後 (c)HUMAN RITGHTS WATCH


焼き打ちから逃れた村人が国連の調査団に語った当時の生々しい様子は、筆舌に尽くし難い。


襲撃はこんなふうに行われた。まずロヒンギャの住む村の上空に軍のヘリコプターが飛来し、上空から住居を目掛けて次々と手榴弾を投げ込む。爆発に驚いて家から飛び出てきた住民たちを、待ち構えていた地上部隊がライフルで狙い撃ちにする。動けない老人たちは家から引きずり出され、殴打された後に木に縛られる。そして、体の周りに灌木や枯れ草をまかれ、火を付けて焼き殺される。


虐殺の例に漏れず、女性や子供は格好の標的になった。


11歳のある少女は、家に押し入った4人の兵士が父親を殺害した後、代わる代わる母親を強姦するのを目の当たりにした。その後、母親だけを残した家に火が放たれたという。


別の家では、泣きじゃくっていた乳児に兵士がナイフを突き刺し殺した。5歳の少女は兵士に強姦されていた母親を助けようとして、ナイフで喉元を切られて殺されたらしい。


ロヒンギャの住む家で次々に殺戮が繰り返され、最後は村ごと焼き打ちにする――。ボスニア紛争中の95年に起きたスレブレニツァの虐殺を思い起こさせる手口だ。スレブレニツァの犠牲者数は8000人以上とされるが、ロヒンギャのこれまでの死者数はそれをはるかに上回る。


迫害に加担しているのは、政府や軍隊だけではない。ミャンマー政府は社会に影響力を持つ僧侶を巧みに取り込み、ロヒンギャ弾圧の先鋒に据えている。その中心が、仏教過激派の指導者である僧侶のウィラトゥ。ロヒンギャがジハード(聖戦)を仕掛けていて、ミャンマー人の女性をレイプしているなどと話し、イスラム教徒への憎悪をあおっている。


国際人権団体のヒューマン・ライツ・ウォッチのリチャード・ウィアーに言わせれば「完全なヘイトスピーチ」だ。しかし、動画サイトなどで繰り返されるウィラトゥの言葉は一定の影響力を持っているようだ。


政府と軍、そして宗教界までもが一体となってイスラム教徒を迫害する構図だが、悲劇は今に始まったわけではなく、長い歴史の一部にすぎない。


ロヒンギャに対する迫害と難民の歴史は、古くは18世紀にまでさかのぼる。


ロヒンギャの多くが住むミャンマーのラカイン州には、紀元前から続き15〜18世紀に栄えたアラカン王国があった。ロヒンギャはその時代からこの地に暮らすイスラム教徒だ。


ロヒンギャの運命が大きく変わり始めたのは隣国ビルマのコンバウン王朝がアラカン王国を征服した1785年。迫害を逃れるため、多くのロヒンギャが現在のバングラデシュに逃げ込んだ。「難民」ロヒンギャの始まりだ。


ビルマのコンバウン王朝がイギリスとの戦いに敗れ、1826年にラカイン州が植民地になると、多数のロヒンギャがこの地に戻った。イギリスは1824年にビルマのコンバウン王朝に侵攻し、1886年、全土をイギリスの植民地にした。そして1948年にミャンマーがイギリスの植民地支配から独立した後、新たなロヒンギャへの迫害が始まった。


62年にクーデターで権力を掌握したネウィン将軍は78年、南アジア系住民をミャンマーから追放する「オペレーション・ナガミン(竜王作戦)」を決行。排斥対象になったロヒンギャは殺戮や婦女暴行、宗教弾圧で最大の被害者になった。約20万人のロヒンギャが現在のバングラデシュに逃げ込み、食料も安全も保障されない生活を送る羽目に陥った。国連による難民キャンプが設立されたのはこの頃だ。


ネウィン軍政はその後も手を緩めることなく、次は法的な手段でロヒンギャ排除を加速させた。


82年に制定された「国籍法」はその最たるもので、現在のミャンマー政府に至るまでロヒンギャ弾圧を正当化させるよりどころになっている。ミャンマー国民を「イギリスがミャンマーに侵攻する前年の1823年以前から定住する民族」と法的に定義付けたことで、ロヒンギャは法的にも排斥の対象となった。


ロヒンギャの総数200万人とも300万人とも言われ、イギリスからの独立後、追放されたり虐殺から逃れるため国外へ脱出したロヒンギャは160万人ともみられている。そして今この瞬間も、祖国ミャンマーから逃げ出している。


逃避先の日本でも民族差別は終わらない


「高校生になるまで、自分たちが迫害されていると思ったことはなかった」。ラカイン州で生まれ育ったロヒンギャのゾーミントゥット(45)は、幼少期をこう振り返る(編集部注・ミャンマー人の名前は姓名の区別がない)。


軍や当局から毎日のように暴行を受け、コメや金を強奪されていたロヒンギャにとって、迫害は日常だった。軍政下で厳しい情報統制が敷かれていたため他地域の事情を知ることもなく、ロヒンギャ同士でも軍を刺激する発言ははばかられていた。「自分たちが特別と思っていなかった」


ゾーミントゥットの運命を変えたのは、スーチーとの出会いだ。


日本で暮らすゾーミントゥット(下写真)は自営業を営みながらロヒンギャの惨状を国際社会に訴える Hajime Kimura for Newsweek Japan


当時の首都ヤンゴンの大学に通っていた時、住んでいた場所から歩いて15分の所に彼女の家があった。自宅軟禁されていたスーチーは、庭先でよく演説を行っていた。ゾーミントゥットは実家のあるラカイン州を出た後、ミャンマーの政治状況を詳しく知る。ロヒンギャ迫害だけでなく、国全体を支配する軍政の圧政を知り、怒りを覚えた。


88年の大規模な学生運動をきっかけに、民主化の機運が再び高まっていた頃だ。彼は大学の友人らとたびたびスーチーの家に足を運び、演説に聞き入った。


95年のある日、スーチーはゾーミントゥットらを自宅に招き入れた。91年にノーベル平和賞を受賞した偉大な人物は、学生たちにこう話した。「あなたたち、言いたいことがあるのでしょう? なぜそれを口に出さないの?」


彼女が発した言葉はそれだけだった。当時、軍の厳しい監視下にあったスーチーは、具体的な政治行為を促す発言を禁じられていた。たった5分間の出会いだったが、打倒軍政の思いを奮い立たせるには十分だった。


翌96年、ゾーミントゥットは88年以降で最大規模となる民主化デモに参加し、学生たちを指揮した。だが、軍の前に学生たちは無力だった。即座に捕まり、4カ月間拘束された。釈放後も当局の取り締まりが終わることはなく、ヤンゴン出身の友人たちの家には次々と軍が入り込み、暴行を加えた。


それでも、ロヒンギャであるゾーミントゥットの危険度は、ミャンマー人の友人たちとは格段に違う。ゾーミントゥットが次に捕まれば、それは死に近づくことを意味する。


当局の追跡を避けるためヤンゴン市内を逃げ回り、友人やその知り合いらの家を転々とする。時に古びた工場に逃げ込み身を隠した。移動は夜、暗闇の中だ。半年間ほど逃亡生活を続けたが、「もう逃げ切ることができない」と考え、生き延びる手段として国外脱出を決断。つてを頼って偽造パスポートを扱うブローカーにこぎ着けた。


98年、偽造パスポートの作成料とブローカー料、当局への賄賂と東京行きの航空券含めて約8000ドルを支払い、「パスポート」を手にした。名前も生年月日も異なるパスポートを。


それから19年。ゾーミントゥットは今、日本の埼玉県桶川市に家族と共に暮らしている。


「怖かった。偽造パスポートがばれて連れ戻されるのではないかと不安だったから」――。来日した当時の様子を、今も怯えるように話す。


来日直後は、夜勤のアルバイトで生計を立てた。慣れない文化や社会にとまどいつつ、日本の生活に溶け込むため日本語を必死で覚えた。


ミャンマー政府の巧妙な浄化策


「景気はあんまり良くないね」と、流暢な日本語で話すゾーミントゥットは、10年ほど前、スクラップ工場の経営を始めた。中古の自転車や家電製品を売買している。川越市の事務所にやって来る日本人の取引先から「社長」と呼ばれ、硬軟織り交ぜた口調で仕事をさばく姿は敏腕経営者といったところだ。景気が悪いと言いつつ、新たな土地を買いビジネスの拡大にも余念がない。同郷の妻と4人の子供たちの生活も安定している。


「子供たちは日本の学校に通っているが、行政はとても面倒見がよくて何も困っていない」と、ゾーミントゥットは言う。祖国での壮絶な経験を経て、無一文から日本で今の地位を築いたのは、「苦難の民族」ロヒンギャ故のバイタリティーなのかもしれない。


ただ、そんな彼を今も悩ませるのは、やはり祖国で苦しむ同胞たちのことだ。


なかでも一番の懸念は、祖国にいるロヒンギャが「自発的に」外国人としての立場を受け入れてしまっていること。ミャンマー政府は、武力だけにとどまらない浄化政策も進めている。


「無国籍」のロヒンギャに対して、当局は必死にあるカードを受け取らせようとしている。「NVC(National Verification Card)」と呼ばれる外国人仮滞在証明書で、建前上は市民権を申請できることになっている。


だが「このカードは罠だ」と、ヤンゴンでロヒンギャの人権改善を訴える活動を行うチョースオンは言う。このカードを受け取った時点で、自らを外国人だと認めることになるからだ。しかも軽微な罪を犯しただけで簡単に取り上げられ、取り上げられれば再発行の可能性はほぼない。


国籍法が施行される約30年前の55年、軍政になる前のミャンマー政府は「国民登録カード」と呼ばれる証明書を配布しており、ロヒンギャたちもこれを手にしていた。つまり、法的にもミャンマー人だった時期があるのだ。


政府はその後このカードを回収し、今はその代わりにNVCを持たせることに躍起になっている。ロヒンギャが「自発的に」外国人になれば、ミャンマー政府は合法的に国外追放に追い込める。


NVCがなければ銀行口座を作ることもできず、社会生活が送れない。カードはロヒンギャの国内移動の自由も保障するが、それ以外にも政府は学校での進級や進学の際に提出を求めている。つらいのは進学を希望する子供にせがまれることだと、ゾーミントゥットは語る。事情が分からない子供から「お願いだからカードをもらって」とせがまれた親が泣く泣くカードを受け取ってしまう。だが手にしたら最後、外国人になってしまう。


ミャンマー政府は国際社会の目を気にして武力弾圧を躊躇しがちにはなったが、その代わりにNVCという新たな手を使っている。NVCを絶対に受け取るなと、異国に逃れたロヒンギャたちは祖国の同胞に呼び掛けている。だが、巧妙な手口で「非・国民化」を迫るミャンマー政府の罠に落ちるロヒンギャは後を絶たない。


ミャンマーにはロヒンギャ以外にも、政府と対立する民族が多くある。ラカイン州にはラカイン族と呼ばれる民族がおり、歴史的に政府との軋轢が絶えなかった。彼らとの全面闘争を避けたいミャンマー政府は、同じ地域に住むロヒンギャを悪玉に仕立てることで、ラカイン族の政府への反感を和らげようとしている。


「ラカイン族のトップは、軍とつながっている」と、日本でロヒンギャ難民として暮らすアブールカラムは語る。「政府はラカイン族をコントロールするためにロヒンギャを利用している」


アブールカラムは88年にヤンゴンで起こった民主化を求める学生運動に参加。その時、ロヒンギャ以外の民族もミャンマー政府と激しく対立していることを、身をもって知ることになった。


短期間で終わった民主化運動の後、アブールカラムは他の学生らと共に当局から追われる身になった。ヤンゴンを脱出し、タイとの国境沿いに向かって逃げた。一緒に逃げた7人の友人のうち、1人は豪雨で増水した川に流されて死んだ。


疲労困憊でたどり着いたのは、カレン族が住む地域だった。ミャンマー政府と長年対立している民族の1つで、自前の軍隊も持つ反政府勢力の象徴的な存在だ。


食べ物や水が体に合わず高熱を出し続けたアブールカラムだったが、そこで過ごすうちに、ミャンマー軍と戦おうという思いが湧いてきた。「恐ろしく強い」カレン軍ならできるかもしれない、と。


この後3カ月間、アブールカラムはカレン軍に入隊し軍事訓練を受けた。そしてある日、カレン軍とミャンマー軍の武力衝突に直面した。カレン側は10人前後、対するミャンマー軍兵士は数百人規模。圧倒的に劣勢だったが、それでもカレン軍はミャンマー軍兵士を次々と撃ち殺していったという。


自分にはできない。殺戮の光景を目の当たりにして思いは変わった。「軍が悪いのではなく政治が悪いのだと思った」。傍らでは、カレン族の子供がミャンマー軍に銃口を向けていた。


<後編に続く>


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前川祐補(本誌編集部)


このニュースに関するつぶやき

  • 「ミャンマーのビンラディン」とも呼ばれるウィラトゥを始めとする仏教過激派の支持もあり、国軍の暴虐は止まるところを知らない。それが仏陀の教えか!?
    • イイネ!10
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