カズオ・イシグロをさがして

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2017年10月14日 13:22  ニューズウィーク日本版

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ニューズウィーク日本版

<『浮世の画家』『日の名残り』『わたしを離さないで』......ノーベル文学賞に決まった日系イギリス人作家の独自の感性と表現>


私も含めてカズオ・イシグロのファンの厄介な傾向は、この作家と作品についての自分なりの「発見」を語らずにはいられないことだ。


それには理由がある。しっかりした語り口のイシグロの小説を読むと、「私に向けて直接語り掛けられている」と思いたくなる。それに、小説内にちりばめられた微妙なヒントや奇妙な出来事を通じて、読者は自分で真実を「発見」したと感じさせられるのだ。


私が初めてイシグロの小説と出合ったのは90年。オックスフォード大学の書店で、『浮世の画家』(以下、邦訳は全て早川書房刊)を手に取った。日本の名前を持ったイギリス人作家が日本を舞台に書いた小説、という点に興味を引かれた。


3日で読み終え、次の休暇中にも再読した。数年後、初めて日本語で読もうと思った小説もこの作品の日本語訳だった。英語で読んだことがあるし、少なくとも舞台は日本だから......と思ったのだ。


しかし、ここに描かれている日本は、著者自身も述べているように「想像上の日本」だ。5歳で日本を離れたイシグロは、外からの目と子供時代の遠い記憶と旺盛な想像力を通じてしか日本を知らない。


『浮世の画家』には、イシグロの小説が高い評価を受けている要素の多くが詰まっている。文学用語で言う「信頼できない語り手」の使い方は特に巧みだ。


読者の想像力を刺激する


読者は、小野という画家の視点で物語の世界を見るが、それを真に受けてはならないらしいと勘づき始める。重要な出来事の記憶があやふや過ぎるのだ。単に記憶違いをしているのか、自分自身を欺こうとしているのか。あるいは、読者やほかの人たちをだまそうとしているのか。


こうしてイシグロは読者に、自分の記憶を本当に信用できるのか、「自己」とは何なのかを改めて考えさせる。人の自我は不変のもので、過去は揺るぎない事実だと思われがちだが、実はそうとは限らない。


私は『浮世の画家』に感銘を受けたが、きっとこれが1作限りの傑作なのではないかとも思っていた。「日本生まれのイギリス人」という出自を生かしたエキゾチックな作品を、そう何度も書くわけにはいかない。


しかし、『日の名残り』を読んで、自分がいかにこの作家を過小評価していたかを知った。イシグロには、エキゾチシズムの助けなど要らなかった。『日の名残り』は、イギリス人でなければ書けないと思えるくらい、イギリス的な文学だ。


もっとも、イギリス人の描き方があまりに完璧だから、かえってよそ者が「研究」を重ねてイギリスを描いたんじゃないかとも感じさせられる。執事のスティーブンスによるイングランドの田園地帯の描写は、イギリス人の私が感じてはいても決して表現できなかったものだ。グランドキャニオンも富士山もないイングランドの風景は「ドラマ」に欠けるが、抑制的で静かな美しさがある。


こうした描写は、イングランドの風景を描くと同時に、イギリス人男性の理想像を描いていると分析する人もいる。イシグロは多くを語らず、しかし多くのことを表現する。イシグロの小説を読んでいると、想像力を働かせ、目の前のページに記された文字以上のものを読み取ろうとしたくなる。


見落としがちな事実だが(少なくとも私は見落とした)、小野もスティーブンスも通常の意味での好人物ではない。小野は芸術を通じて軍国主義を賛美し、富と名声を得た人物だ。軍国主義がもたらした災禍に直面しても、なかなか自らの責任を認めようとしない。小野が「告白」したのは、娘の結婚話が危うくなってから――つまり戦術的なものだったのかもしれない。


スティーブンスは壊れた妄想を心に抱えた狭量な紳士気取りで、仕事上の義務感を言い訳にして大切な女性や瀕死の父親との関係から距離を置いている。だが作品を読むと、老いと後悔、孤独と向き合う主人公に感情移入せずにはいられない。


作品中、イングランドのあちこちを移動するスティーブンスの旅は、実は自分自身への旅だ。それを通じて、彼は人生を無駄に過ごしたこと、幸福をつかむ最高のチャンスを逃したことに気付く。物語の大詰めで現実を受け入れ、残り少ない時間を精いっぱい生きようと決意するシーンは、とてつもないパワーで読者の感情を揺さぶる。


ジャンルの壁を越えて


『わたしを離さないで』のキャシー・Hは、どこにでもいる普通の若い女性だ。彼女を待ち受ける運命は不当としか言いようがない。キャシーたち「提供者」は臓器を提供するためだけにこの世に生を受けた。なぜ反乱を起こさないのか――多くの読者は疑問に思う。


イシグロは、全ての人間は死ぬ運命にあるが、死は決して公平に訪れないと指摘する。そして人間には自らの運命を受け入れる強い傾向があるとも。その意味で、この作品は単なるディストピア小説ではない。人間が置かれた状況についてのある種の寓話だ。


イシグロはファンタジー小説『忘れられた巨人』が批判されたとき、この国では竜に対する強い偏見があることを知らなかったと冗談を言った。ジャンルの壁をやすやすと飛び越える勇気は称賛されてしかるべきだ。


イシグロは1つのスタイルに安住する作家ではない。イギリスでは短編集は売れないというのが定説だが、彼は『夜想曲集』でこのジンクスに挑んだ。


イシグロは『わたしを離さないで』の舞台に、イングランドの見捨てられた地域とも言うべきノーフォーク州を選んだ。彼はノリッジにあるイースト・アングリア大学大学院で文芸創作を学び、同州に住んでいた。


私はノリッジからそう遠くない場所に住んでいるので、実際に訪れたことがある。ノーフォーク州には何度も行った。これはかなり珍しいことだ。ノリッジはどこかへ行く途中で立ち寄る場所でも、あえて行きたいと思わせる土地でもない。


『わたしを離さないで』では、「イングランドのロストコーナー」と呼ばれる同州の現実が物語の背景になっている。喪失というテーマについて瞑想を重ね、寂れたノーフォークの「孤立」をその象徴に変える――イシグロの想像力のささやかな一例だ。


ここは「失われた子供たち」が提供者として生きることを運命付けられた場所。彼らの希望にあふれる想像の中では、世界の全ての「失われたもの」が最後に出現する場所だ。しかし、その希望は粉々に砕け散る。彼らは友人を失い、夢を失い、ついには自分の命まで失う。


イシグロのノーベル文学賞受賞はその作家としての力量、人間性、独創性が認められた証しだ。まだ読んでいない人は、ぜひ彼を「発見」するべきだ。


(筆者は元英デイリー・テレグラフ紙東京支局長。著書に『「ニッポン社会」入門』〔NHK出版生活人新書〕など)


<筆者のウェブ連載コラム『Edge of Europe』の記事一覧はこちら>


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[2017.10.17号掲載]


コリン・ジョイス(ジャーナリスト)


このニュースに関するつぶやき

  • カズオ・イシグロ受賞で直木賞、芥川賞の昨今の文学離れを感じてくれる日本人が増えればいいですね。
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