人間の存在に関わる“真のサスペンス”ーー『連続ドラマW イノセント・デイズ』が導く未体験の世界

0

2018年03月23日 13:32  リアルサウンド

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

リアルサウンド

写真

 妻夫木聡が主演だけでなく、原作者と監督に連絡をとり、自ら企画を提案したという連続ドラマ『イノセント・デイズ』。その熱意もなるほどと思えるのは、このドラマシリーズが通常のサスペンス作品とは異質の、一筋縄ではいかないものになっていたからだ。


参考:妻夫木聡、“これまでにない演技”を見せる! キャスティング充実の『連続ドラマW イノセント・デイズ』


 死刑囚の無実を晴らすために、幼なじみが独自に捜査を続けていくという、その一見ありがちな設定に安心していると、そこから転がりだす意外な展開によって、いつしか本作は、とらえようのない未体験の世界へと突入していく。


 ここでは、本作『イノセント・デイズ』第1話の内容を中心に、作品の見どころと、描こうとするものを読みとっていきたい。


■不完全な人間たちが生きるリアリスティックな世界


 竹内結子が演じるのは、放火によって元恋人の妻や子どもたちを殺害したという罪で死刑判決を受けた女性、田中幸乃(たなか・ゆきの)だ。彼女は判決を下されたとき、「生まれてきて……申し訳ありませんでした」と、頭を下げた。しかし、氷のように表情の動かない彼女の顔からは後悔の念は感じ取れない。そんな彼女が、傍聴席に座った一人の人物を見つけ、あたたかい笑顔を見せる。芳根京子が演じる、後に刑務官となる裁判の傍聴人・瞳(ひとみ)は、その姿に違和感を受ける。「生まれてきて……申し訳ありませんでした」…そのことばは、本当に人を殺害したことへの謝罪だったのだろうか。


 笑顔を受け取った佐々木慎一(ささき・しんいち)は、そんな幸乃の子ども時代を知っている数少ない一人だ。慎一は彼女の無実を信じて事件関係者への聞き取りをはじめる。連続ドラマへの出演は3年半ぶりとなる妻夫木聡が演じるのが、正義感は強いが、気が弱くオドオドした態度の、この佐々木慎一というキャラクターだ。原作の登場人物の役割をふくらませ、ドラマ作品では、より重要な存在となっている。


 認知症を患っている母親の介護をしながら、清掃業のアルバイトで日々の暮らしをつないでいる慎一は、その合間を縫って幸乃の調査を続けるが、関係者の口は重く、なかなか進展を見せない。そんな慎一に久しぶりにコンタクトをとってきたのが、新井浩文が演じる人物、丹下翔(たんげ・しょう)だ。彼は慎一や幸乃の幼なじみであり、いまでは成長して弁護士となっていた。


 幸乃を助けるべく協力関係を結ぶ慎一と翔だが、翔が子どもの頃の夢を叶え弁護士になったことを聞くと、慎一はとっさに「自分は普通にサラリーマンをやってる」と、ついつい見栄を張ってしまう。ここで驚かされるのは慎一の意外な“器の小ささ”である。彼は認知症の母親に対してイライラして怒鳴りつけるような姿も見せる。


 本作で描かれる人物たちは、視聴者の共感を生むような存在ではなく、自分の小さな世界を守るために嘘をつき、ときに人を傷つけるような卑小さを見せることもある。それはドラマの主人公である慎一も例外ではない。本作が表現しようとするのは、このように不完全さから愚かな行為を繰り返してしまう人間たちによって形作られる、リアリスティックな世界なのだ。


■気鋭の原作者と監督が生み出した“真のサスペンス”


 「このまま何もしなかったら……俺、一生自分を許せない」と、幸乃を救おうとする理由を語る慎一に対し、ともさかりえが演じる幸乃の義姉が「遅いと思う」と言い放ち、ありがちで予定調和なドラマの雰囲気を破っていくシーンは印象的だ。と同時に、義姉自身も、過去に幸乃の境遇を助けることができなかったことを後悔し、苦しむ様子が描かれる。


 本作の原作者・早見和真が持っている個性が、社会のなかで浮かび上がれない、しかしなんとか社会に必死にしがみつこうとする人間たちの姿を描こうとする部分だ。それは、映画化もされた最初の小説『ひゃくはち』が、自身の経験を基にした、強豪野球部の補欠としてベンチに座ることを目標にする高校生たちのドラマだったことが象徴している。そこにあるのは、突き放したような社会の厳しさと、突き放された人々の声をすくいとる一種の優しさであるだろう。


 アンジェイ・ワイダやロマン・ポランスキー、イエジー・スコリモフスキなどの映画監督を輩出した、ポーランド国立ウッジ映画大学で映画を学び、日本の監督のなかで異質な感覚を持つ監督・石川慶。後味の悪さから「イヤミス」と呼ばれる『愚行録』の映画化作品で、対象から距離をとる演出などで注目を集めた。この安易なヒューマニズムから切り離された原作を映像化するというのは、まさに適材であろう。本作で、慎一がきらびやかな都会の夜景のなか清掃をするシーンの、美しさと孤独を同時に写し取った象徴的なシーンは見事だ。


 幸乃と深い関わりを持った人物たちの話から浮かび上がってくるのは、献身的で慈悲深い彼女のイメージである。ドラマの焦点となるのは、そんな幸乃が、子どもを含めた一家を本当に放火によって殺害したのかという部分だ。事件の真実をめぐるこのサスペンスには、興味を惹く謎解きという意味を超えたところがある。誰にでも優しさを見せる善良な人間が、そんなにもおそろしい犯罪に手を染めていたとしたら…。全ての人間は、自分のためにどんなことでもやってしまうのかもしれない。それは視聴者をも巻き込んだ、人間の存在に関わる“真のサスペンス”であるとも言えるだろう。


■“人間を描く”ということ


 本作を鑑賞すると、ドラマの展開のために都合よくそれぞれの役割を持った人物を配置するだけでなく、人物の内面によってドラマが動かされなければ、そこに血が通うことはないということに気付かされる。


 以前、作品を評するときに「“人間”が描かれていない」ということを述べたところ、「それはクリシェ(陳腐な決まり文句)だ」という意味の反応を受けたことがある。しかしその意見は、私にはピンとこないところがあった。もっと言えば、「人間を描くことがクリシェ」だと言うこと自体が、逆にいまはクリシェになっているのではないかとさえ思う。


 向田邦子、山田太一、倉本聰など、日本を代表してきたようなドラマ作品を、いまあらためて鑑賞すると、そこには「人間を描く」という強い信念がみなぎっているように感じられる。しかし、大勢の脚本家によってドラマ作品が、シリーズ化され量産されていくに従って、次第に“人間を描く”こと自体が形骸化していったように思える。


 近年では、そんなつまらない人間描写なら無い方が良いと、テンポの良さや小ネタの連続によって尺を埋めていくようなドラマが新しいものだとされ、人気を集めている。しかしそれはあくまで、形骸化された人間ドラマへのカウンターとして機能しているに過ぎない。そういう変則的なドラマが注目を浴びた結果、視聴者の側も人間ドラマを評価するということが分かりづらくなっているのではないか。そのため、“人間を描く”ことが、あたかも保守的で反進歩的であるかのような誤解が生まれているように思える。だが優れた人間ドラマは、依然として必要とされているはずなのだ。


 本作が、派手な展開や分かりやすいカタルシスに重きを置かず、より複雑なものとして人間の描写に力を入れていること、そして妻夫木聡や原作者・早見和真、石川慶監督などの若い才能が、そのような作品をつくることを目指しているというのは、日本のドラマや映画の未来にとって、明るい材料である。(小野寺系)


    ニュース設定