菅田将暉の音楽活動に感じる時代の空気 “偽りの自分/本当の自分”を無効化する存在に?

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2018年04月19日 12:52  リアルサウンド

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■触発され、触発し合う『PLAY』


 3月21日にリリースされた菅田将暉の1stアルバム『PLAY』。すでにリリースから1カ月近くが経ち、柴田隆浩(忘れらんねえよ)や渡辺大知(黒猫チェルシー)など、ロック畑のミュージシャンが提供した楽曲が話題を呼んでいる。


 そんな作品にあってひときわ耳を引くのが、フジファブリック「茜色の夕日」の弾き語りでのカバーである。彼が音楽に関心を持つきっかけになったという曲を、アコギ一本というシンプルなフォーマットで大事そうに歌うこのテイクには、菅田将暉という人物のパーソナルな領域が描き出されている。


 以前『LOVE LOVE あいしてる』(フジテレビ系)で吉田拓郎の「今日までそして明日から」を歌っていた際にも感じたが、その朴訥とした歌声と歌詞を噛み締めるような彼の歌唱法は、フォークロック的な楽曲や情景描写を大事にする歌詞との相性が非常に良い。志村正彦在籍時のフジファブリックがまさに「茜色の夕日」などでトライしていた詩情豊かな世界を明確に受け継いでいる存在はまだ現れていないように思うが、菅田将暉にはそういった表現者になり得るポテンシャルが感じられる。


 ところで、筆者が最初に彼の音楽活動に目が向いたのは、2017年1月に出演した『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)でのグリーンボーイズとしてのパフォーマンスである。映画『キセキ –あの日のソビト-』の劇中グループとしてのこの日のステージで振りまいていたスター性には目を見張るものがあった。それ以外にも映画『何者』でもバンドのボーカルを演じるなど、菅田には比較的音楽に近しい役が複数割り当てられており、それゆえ「歌手デビュー」ということにそこまでの唐突感はないと言うことも可能である。


 一方で、「人気俳優が歌手デビュー」というケースは、単純な状況論でだけ言えば「CDバブル時代の遺物」といったような趣もなくはない。性別を問わず少し人気が出るとすぐにCDを出す風潮がかつてはあったし、そこから何か特別なものが生まれるでもなくフェードアウトしていく事例も多々あった。菅田将暉に関しては前述のような音楽との親和性があり、またステージ上でのオーラには目を引くものがあったとはいえ、「昔よくあった成り行き任せの音楽活動ではないか」という疑念もデビュー当時においては完全には拭いきれなかった(デビュー曲があまりにもストレートなギターロックだったことも警戒心を強めるきっかけとなった)。


 ただ、どうやらこの人にはやはり何か特別なものが備わっているようである。


「僕が菅田将暉という人間に対してものすごく興味があって、どうやらその人は歌を歌うようであると。実際に弾き語りをしている映像を見ていたら、この人となら何か美しい曲が作れるんじゃないかなと思った」


「デュエットという形で一曲作ることができて(注:「灰色と青」)、ひとつ音楽家として違うところにいけたような気がした」
(3月8日放送の『NEWS ZERO』での米津玄師のコメント)


 当代一流のミュージシャンである米津玄師にここまで言わせる菅田将暉の魅力の源泉、それは周囲を触発する力ではないかと思う。


 この人となら、何か面白いことができるのではないか。『PLAY』に関わったクリエイターにはこんな予感が共通していたように思える。各自がポジティブなインスピレーションに沿ってそれぞれの「菅田将暉像」を描きつつ、そこに菅田が自分の色を加えていくという形で作り上げられていった作品だからこそ、完全な自作自演ではないにもかかわらず『PLAY』には菅田将暉のパーソナリティが一貫して表現されているかのような統一感がある。


 強烈な存在感を持ちつつも、そこに他人の色(しかも特定のパートナーでなく、あらゆるタイプの複数の人の色)が入り込む余地がある。どちらにも寄らないバランス感覚のある佇まいは、とても現代的であると言える。最近で言えば自身でアウトプットの舵取りをしながら「チームで動いている」という意識の強い三浦大知からも同様の雰囲気を感じるが、エゴと協調性のさじ加減に時代の空気を感じる。


■「アイドル」「アーティスト」論への現代的な回答


<愛する人のために生きる そんなことは 僕はもうやめた>


 『PLAY』にも収録されており、菅田将暉が初めて作詞に参加した「呼吸」の冒頭にはこんな歌詞がある。人気俳優が歌手活動でこのフレーズを歌うということから、「素の自分を見てください」とでもいうようなメッセージを読み取ることもできると思う。


 ここで展開される「偽りの自分」と「本当の自分」とでも言うべき分類、および「人気者」が前者への違和感と後者への憧れを発露させるという構図は日本の音楽業界において様々な場所で登場してきたものである。


 歴史をさかのぼれば、人気絶頂だったころの美空ひばりは「美空ひばり」と「加藤和枝」(彼女の本名である)のギャップに苦しんでいた。浅草の国際劇場でファンの女性から塩酸をかけられた事件についてこんなふうに回想している。


「きらびやかな舞台の衣装をぬいだとき、私は加藤和枝という平凡な娘でした。私に塩酸をかけた人と同じ十九歳の悩みが、スター美空ひばりの魂の内側にはありました」(竹中労『美空ひばり』内の本人の独白)


 また、近年では松浦亜弥が2010年11月の週刊プレイボーイの誌上において「あやや」という人格を「あの人」と言い放ち、「松浦亜弥100%じゃ絶対できなかった」「だんだん『嘘笑い』が得意になってて。車が来たらよけるみたいに、カメラが来たら反射神経で勝手に口角が上がるんですよ。それがちょっと怖くなりました、自分で」とその当時における自分本来の姿とのギャップを語っている(ちなみに彼女は2002年、美空ひばりが遺した言葉につんくが曲をつけた「草原の人」をリリースしている)。


 それでは、菅田将暉の音楽活動も、こういった「偽りの自分」と「本当の自分」というフレームで考えるべきものなのだろうか? 役を演じる俳優から自分の心情を吐露する歌手へという大きな流れがあり、『PLAY』はその第一歩、ということになるのだろうか?


 これまでの芸能史に照らし合わせればそういった捉え方はとてもわかりやすいし、実際にそういう側面もないわけではないだろう(「何かの出来事に対してどう思うかみたいな人間性って、役者をやってて出すことはないんですよ」/『ROCKIN’ON JAPAN』4月号別冊 「菅田将暉 超ロングインタヴュー『声』の行方、そのすべて」より)。ただ、彼の音楽活動から垣間見えるのは、「抑圧された自我を表現するためには音楽が必要だった」というようなものとは異なるストーリーのように思える。


「音楽を始めた時ほど差別化はしていません。芝居では決められた役がありますし、音楽はよりパーソナルな私情が出てくるけれど、どちらも『物語』を演じるという意味では同じ」
(Numero TOKYO「菅田将暉インタビュー『裸一貫なミュージシャンに憧れる』」)


「最初は音楽活動は音楽活動、俳優業は俳優業って別々のものだと思っていたんです。だけど最近は「どうやらそうでもないぞ」と思うようになって。それはこのアルバムを完成させて思ったことでもありますね。結局、俳優業でどんなことをやろうとも、音楽の中でどんなことをしようとも、両方自分の人生」


「極論を言えば、菅田将暉はアルバムを出さなくてもいいんですよ。今までの僕の活動の流れからして、音楽活動は必要ないのかなって。だけど明確な意味がなくても、アルバム制作を通してこんなに素敵な出会いがあったし、自分自身がこれだけ高揚できた。自分の気持ちって、100%人に伝えるのは難しかったり、そもそも伝えるものでもなかったりするじゃないですか。そういうものを参加アーティストたちと共有できたことは自分にとって貴重な経験でした」
(音楽ナタリー『菅田将暉 デビューアルバム「PLAY」特集)


 こういった発言から筆者が感じるのは、「客観的に自分の立ち位置を把握しつつ」「周りからどう見えるかということも考慮しながら」「自分が本当にやりたいことを楽しくやる」「そしてその範疇にたまたま音楽というものがあった」というような肩の力の抜けた軽やかさであり、「偽りの自分(=俳優で役を演じる)」「本当の自分(=音楽で自我を表現する)」といった古典的な線引きをにこやかに、かつ鮮やかに無効化するかのような力強さである。


 ここ数年の女性アイドルグループのブームを経て話題になる回数が増えた「アイドルかアーティストか」という議論は、基本的にはこの「偽りの自分」「本当の自分」という区分けを前提として、その演者の表現がどちら側に類するものか、という構造で話が進んできたと言っていいだろう。誰もが普段からSNSで発信し、「偽りの自分」と「本当の自分」というものの違いがあやふやになっている今の時代においてすら、この不毛な構図は各所で繰り返されている。


 そんな状況において、「アイドル」とはまた少し位置づけが違うが、音楽が本業というわけではない人気俳優が「本当の自分の吐露」といったストーリーに偏らずに「単にやりたい、楽しいこと」として作品をリリースしたこと、そしてそれが複数の才能あるミュージシャンとのコラボによって形作られている(=すべて自作自演というわけではない)というのは注目に値することである。偽りも本当もない、そこにはただ「自分」がいるだけ、とでもいうような潔さが菅田将暉のスタンスには貫かれている。


 自作自演信仰、「本当の自分」と「偽りの自分」、アイドルかアーティストかーーそんな凝り固まったテーゼを、この先の活動を通じて時代遅れのものに追いやってほしい。菅田将暉という人気俳優の音楽活動が、そんなパラダイムシフトを起こすことを大いに期待している。(文=レジー)


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