『パシフィック・リム:アップライジング』なぜ賛否両論に? 不満の声が出る理由を検証

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2018年04月19日 13:02  リアルサウンド

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 日本の怪獣映画や巨大ロボットアニメを、ハリウッドの最新技術によって合体させ実写映画化したら…。子どもたちのみならず、かつて幼い頃、そのような作品に胸を躍らせた大人たちの夢を叶えた映画が『パシフィック・リム』だった。チャレンジングな作風にも関わらず、推定約2億ドルという異例の制作費が投入された、かつてないの怪獣ロボットアクションは世界中に受け入れられ、とくに日本の一部の層で、その試みは熱狂的に支持された。


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 その続編となる『パシフィック・リム:アップライジング』は、ギレルモ・デル・トロ監督からスティーヴン・S・デナイト監督にバトンタッチし、前作同様、人型巨大兵器「イェーガー」と異世界から出現した怪獣との派手なバトルが展開する。だが観客の評価は現時点で賛否半々に分かれているようだ。今回は、本作の描写や背景にあるものを検証しながら、そんな一部で生まれた不満の理由について考えていきたい。


 前作『パシフィック・リム』が画期的だったのは、人間によるドラマ部分が少なく、ロボと怪獣の戦闘シーンばかりで構成されているという部分だ。「人間ドラマが希薄」だとか、「戦闘シーンばかりで単調だ」という指摘も見られるが、そんなことは作り手やファンは百も承知で、それこそが本シリーズの重要なコンセプトなのである。


 私も小さい頃に怪獣映画が大好きだったが、いつも感じていた不満点は、人間ドラマが多すぎるということだった。怪獣が暴れ回ったりぶつかり合うところが見たいだけなのに、なぜ延々と人間たちが会話する場面を見る必要があるのか。怪獣そっちのけで抒情的な劇中歌が延々と流れる場合には静かな怒りさえ覚えた。もちろんいまでは、作品を成立させるための事情を理解しているし、スペクタクルシーンに予算がかかることや、人間ドラマが重要なテーマにつながる場合があることも承知している。しかしそれはあくまで、大人の事情であり大人の理屈である。『パシフィック・リム』は、そんなものを最小限に抑えたところに価値があるのだ。


 本作『パシフィック・リム:アップライジング』も、基本的にはそのシンプルな構成を踏襲しているが、ストーリーには少し複雑な要素と、“ひねり”が加えられている。前作で怪獣の侵略を退け滅亡を免れた人類。本作の物語は、そんな平穏が訪れた世界で行われる、イェーガーの新人パイロット育成訓練、そして中国企業が開発するパイロットの必要ない遠隔操作型「ドローン・イェーガー」の台頭という、二つの対照的な出来事が起点となる。突如現れた謎のイェーガーによる襲撃事件から始まる騒動は、いきなり人類の存亡をかけた死闘を繰り広げていた前作からすると比較的小さな規模だと感じられるが、その裏には予想を超えた謀略が存在し、地上は前作以上の大混乱に見舞われる。


 謎のイェーガーとの一対一の対決や、機体への有機体の侵蝕、量産型の暴走などの描写は、『機動警察パトレイバー the Movie』(1989)や、『新世紀エヴァンゲリオン』(1995〜)の要素を拝借しているはずだ。日本の作品に対するリスペクトは健在である。


 展開の読めない変則的な物語の流れから、それでも最終的には前作と同じ王道的な方向へと回帰して納得させてくれる今回の脚本は、かなり練られたものだということは間違いない。だが、前作があまりにも直線的な展開だからこそ、怪獣やイェーガーのディテールへの執着や、恥ずかしくなるくらいの熱血的な演出を引き立てていたことを考えると、前作の繰り返しになることを避けたといえる、本作の脚本におけるテクニカルなギミックというのは、それらに没頭させてくれないという不満を一部で生んでしまったというのは理解できなくもない。


 とはいえ東京に出現した怪獣たちと、人類を守るイェーガーたちとのチーム戦は、クライマックスとして前作以上の盛り上がりを見せる。『パシフィック・リム』では最終決戦の舞台が海中だったため、せっかくの巨大なスケールが減殺されてしまっていたことを考えると、高層ビル群のなかでバトルをたっぷりと見せてくれるというのは嬉しい。


 とくに壮観なのは、マーク6(第6世代型)のイェーガーがそろい踏みするところだ。前作で活躍した機体「ジプシー・デンジャー」の後継機となる、重量化と攻撃機能の追加を施された「ジプシー・アベンジャー」、イェーガー最速の「セイバー・アテナ」、鞭を操る「ガーディアン・ブラーボ」など、多彩な特徴を持つ機体が協力しながら怪獣へと挑む。


 前作では「チェルノ・アルファ」という、いささか危険なネーミングの、重戦車のようなレトロで渋い機体が異彩を放っていたが、この機体を含め、一作目で大破した機体たちが合体したようなデザインの「ブレーサー・フェニックス」が、唯一の第5世代型として気を吐いている。巨大な薬莢をばらまきながら、胴体から景気よく機銃掃射を行うシーンは必見といえよう。


 東京が舞台になるところからも分かる通り、やはり本シリーズの精神的な拠りどころとなるのは日本である。前作を含め、数えきれないほどの怪獣映画、ロボットアニメからの引用が見られるが、じつはここで明確に排除されたものが二つある。


 日本のアニメーションは、アメリカを含め世界に輸出されてきたが、そこでよく障害となったのが、いわゆる「お色気シーン」だ。ロボットアニメの美少女パイロットがなぜ扇情的な格好をするのか、なぜシャワーを浴びるような「サービスカット」があったりするのか。これらの描写は、日本の“少年向け”作品では伝統的に行われてきたが、多くの国では問題となってしまうのである。日本のアニメ作品で育った大人たちにしてみれば不思議に思うかもしれないが、子どもの興味を惹くようなロボットアニメに、ポルノ的な要素を伝統的に加えていたというのは、冷静に考えてみれば奇異なことである。これは日本の男性クリエイターによる、女性に対する意識の反映であると同時に、日本の文化そのものにおける根深い差別的な問題をはらんでいるように思える。


 本シリーズが、このような要素から距離をとったというのは、マーケティングの面から見ても至極当然なことだ。さらに、キスシーンを含め恋愛描写を採用しないことで、女性が何かしら性的な役割を果たさなければならないという、一種の男性的価値観からも解放されている。本シリーズは、この手のジャンルを「男の子のもの」ではなく、より広い層に受け入られるものへと「進化」させた。そして同時に、ロボットアニメの未来を指し示したといえよう。


 もう一つ排除されているのは、日本の怪獣映画やロボットアニメが底流に持っている「悲壮さ」だ。『ゴジラ』がなぜあれほどまでに怖ろしく、日本人の心をとらえるのかというと、そこには空襲や原爆投下によって、自国の都市が焦土と化した「敗戦の記憶」が映し出されているからである。実際の日本海軍の戦艦を想起させる『宇宙戦艦ヤマト』は言うに及ばず、『新世紀エヴァンゲリオン』第25話「Air」(劇場版)で、日本政府から見放されたネルフ本部が、制圧され追いつめられていく恐怖は、沖縄戦の惨禍を描いた『激動の昭和史 沖縄決戦』(1971)を思い起こさせる。影響の大小はあれど、戦闘が描かれる日本の作品には、このような敗戦の悲しみが貼りついている。戦争に馴染みのない子どもの観客にも、戦いにはいつでも、後ろめたさや寂しさなど、苦いものがつきまとうということが示されることで、その感覚は伝わっていくのだ。


 敗戦の記憶をさらに強くリフレインした『シン・ゴジラ』(2016)が、日本でブームを巻き起こしたものの、海外ではあまり理解されなかったというのは、そのような日本独自の文脈が前提となっていたためであろう。本作は、この「出汁(ダシ)」が希薄なために、日本人の観客にとって、「何かひと味足りない…」と思わせるところがある。


 『パシフィック・リム』では、やはりこの種の感覚は薄まっていたものの、ギレルモ・デル・トロ監督は、戦争の惨禍や侵略される恐怖のイメージを作品に与えることを忘れてはいなかった。本作はそのようなウェットな要素をさらに薄めたことで、より明快でスポーティーな印象を受ける、万人受けするようなものになったといえよう。それは、日本の要素を組み込みながらも、本質的には一定の距離をとり、「アメリカ映画」らしい作品になったことをも意味しているのだ。(小野寺系)


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