食肉処理場が舞台のラブストーリー 『心と体と』が描くシンプルで崇高な愛のドラマ

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2018年04月21日 12:01  リアルサウンド

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 ここ数年の三大映画祭の最高賞受賞作といえば、ヴェネチアの『シェイプ・オブ・ウォーター』やカンヌの『わたしは、ダニエル・ブレイク』など社会的側面を強く持ち合わせた作品が目立つ印象だ。それはベルリンでも同様で、難民問題を題材にした『海は燃えている〜イタリア最南端の小さな島〜』やイラン社会のリアルを切り取った『人生タクシー』、発展を続ける中国社会の片隅に潜む闇を描写した『薄氷の殺人』など。


 しかし『心と体と』は、それらと比較すると実に内面的な、ナイーブな物語を描き出していく。コミュニケーションが苦手な女性と、片腕が不自由な男性。そして彼らが働く首都ブダペスト郊外の食肉処理場を舞台にした労働者たちの姿。一見すると社会的なモチーフを充分に感じうるだけの材料が揃っているにもかかわらず、あくまでも“夢”で結び付けられた男女が“孤独”を分かち合うというラブストーリーに徹している。


 簡潔に物語を整理しよう。食肉処理場で管理職として働くエンドレは、代理職員として働き始めたマーリアと出会い、気にかけ始める。その頃、社内で“交尾薬”なる薬品が盗まれる事件が発生し、その犯人を探すためにエンドレは従業員全員の精神分析を依頼。すると、カウンセリングでエンドレとマーリアが同じ夢を見ていたことが発覚。それをきっかけに2人は急速に惹かれあっていくのだ。


 “夢”をテーマにした映画というのはこれまでにも数多く作られている。その中でも、精神科医と“夢”を媒介して境遇の異なる孤独な男女が結び付けられていくというプロットは、 キム・ギドク監督がオダギリジョーを主演に迎えた『悲夢』に近いものを感じる。同作は別れた恋人の夢を見続ける男と、その夢に呼応するように行動する夢遊病の女が愛し合うようになる物語だった。


 しかし『悲夢』ではドラマ全体を感情的な描写で重ね、悲劇へ向かって辿っていくといういかにも映画らしいルックスを携えていたのに対して、『心と体と』は徹底してロジカルで感情の起伏が抑えられ、主人公2人の出会いが一種の神秘的な、あたかも“神の導き”のように描いている点で明確に異なっている。そう“夢”があくまでも“夢”のまま、絶対に現実に関与してこないのである。


 『心と体と』の中で描かれる“夢”の描写はあまりにもシンプルだ。雪が積もった森の中で、2頭のつがいの鹿が散策をしている。本当にただそれだけの映像であり、もちろん“神の使い”の象徴としてハンガリーをはじめとしたヨーロッパ諸国で認識されている鹿の存在に、深い理由が存在しているのかもしれないが、あえてそれに深入りする余地を与えない。


 もっと単純にいえば、この映画の鹿が担っている役割というのはマーリアとエンドレ、この2人の孤独な男女の運命的な出会いのきっかけにすぎないのだ。そこにはどんなスピリチュアルな物語でも敵わない、シンプルで崇高な愛のドラマが展開することを象徴させている。


 ところで、鹿によって結び付けられていく2人の姿を見ると、イルディコー・エニェディ監督の過去作で、唯一日本で紹介された『私の20世紀』を思い出さずにはいられない。生き別れて異なる境遇を生きていた双子が、クライマックスで不思議なロバに導かれるようにして邂逅を果たしていたのだ。奇しくも主人公2人が孤独だという共通点もあり、そして主演女優の謎めいた魅力がスクリーン上に強く放たれているという点でも共通している。


 本作でマーリアを演じたアレクサンドラ・ボルベーイは、これまで舞台演劇を中心に活動してきた。本作の演技で一躍脚光を浴び、たちまち出演作が急増中だ。透き通るような白い肌と、大きな瞳でじっと見つめる表情。明確な感情を出さずに、一切の無駄のない動きしか見せない彼女の姿は、時に奇妙に見えるも、神秘的な存在に思えてしまう。


 それは『私の20世紀』で双子と母親の3役に挑んでデビューを飾ったドロサ・セグダを見たときと同じ感触だ。モノクロームの画面の中で、役柄に合わせて異なる表情を見せたドロタ。ふと見せる視線の鋭さや、微かな微笑みが華やかな作品に理知的なアクセントを加えていたのだ。今やドロタはハンガリーを代表する女優の1人といってもいい存在だ。必然的にアレクサンドラも東欧を代表する大女優へと上り詰めていく可能性を秘めているに違いない。(久保田和馬)


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