【今週はこれを読め! SF編】十三の珠玉、ミルハウザーの魔術に魅了される一冊

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2018年07月03日 11:22  BOOK STAND

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『十三の物語』スティーヴン・ミルハウザー 白水社
すべての作品が磨きぬかれた珠のごとく、ひっそり煌めいているミルハウザーの短篇集。ぼくは偏愛の読者なので、何人かの作家については「このひとが書くものなら習作や失敗作も含めてなんでも好き」なのだが、ミルハウザーはそういうレベルではない。贔屓目なしに、すべての作品がおそろしいほどの完成度なのだ。精緻な技巧によって、世界の不思議に接近していく。
 本書に収められた一篇一篇を詳しく紹介したいところだが、どれだけ枚数があっても書ききれないので、ここではとくに奇想性の際立った作品についてふれよう。
「映画の先駆者」は、十九世紀中後期のマンハッタンで、視覚芸術の新しい技法を試みたハーラン・クレーンの人生を綴る。語りの視点は現代におかれ、歴史のなかに埋もれたできごとを、残っている資料や証言によって掘りおこすスタイルだ。

我々には先駆者の分類学が、あと一歩で成らなかったものたちの美学が必要なのだ。映画という、一八九〇年代半ばに為されたあの不可避の発明の前、十九世紀は、生気と驚異に満ちた動きの錯覚をもたらす目覚ましい玩具、見世物、娯楽をあまた生みだした。(略)簡単には説明のつかない動画実験に我々は出会う。曖昧でうさん臭い、時には異端的ですらある道を辿るような歴史家を誘う不透明な企てが、そこここに見受けられるのだ。

 クレーンは画家としてキャリアをスタートさせた。雑誌の挿絵を担当するようになり、そのころから写真に興味を持ちはじめる。アトリエで絵の具の実験をしていたとも伝えられる。やがて、偏執的に写実を追究する画家の一派に加わるが、クレーンの絵画は仲間の作品と決定的に違っていた。たとえば彼の『蠅のいる静物画』では、林檎にとまった蠅が絵の具のなかから飛び出して、別な林檎にとまる。その作品は現代では失われているために検証はできないが、幻灯機のような仕組みの応用との説、機械仕掛けで物理的に動いている説などがある。しかし、どちらの説も決め手に欠ける。
 クレーンはその後も、動く絵をめぐる実験をつづけ、それは写真の新しい可能性の模索だったかもしれないし、エジソンやリュミエール兄弟とは違った方式での映画開発だったかもしれないが、その詳細はもはやわからない。たんなる目くらましだったかもしれないし、異端のテクノロジー、もしくは魔術だったのかもしれない。
 そして1883年に、ファントピック・シアター(幻視劇場)がオープンする。劇場には舞踏会を描いた絵がかかっており、ピアノの伴奏によって、絵のなかのひとびとが踊りだすのだ。額縁から出てきて、その場で踊っているように見える。クレーンの演目はしだいに視覚芸術の域すら超えはじめる。それを臨場感というべきか、幻覚というべきかはわからないが、鑑賞者のなかには自分が絵のなかへ入ったと感じる者があらわれる。彼らはのちに、そのときのことを「夢のような感じ」「大きな幸福感」などと証言している。
 前述したように、過去のできごとを現代から振りかえって再構成する語りかたなので、クレーンの内面はいっさい語られない。彼のひととなりも、限られた友人の証言からうかがうしかない。読者の目に映るのは、自分が開発した表現(それも芸術として扱われない)を先鋭化させていく、頑なで孤独な、謎めいた男の姿だ。
 ミルハウザーはこれまでも、手作りでアニメーションをとことんまで精緻化する男の物語「J・フランクリン・ペインの小さな王国」(短篇集『三つの小さな王国』に収録)、宇宙を内包するほどのホテル建造に取り憑かれた実業家を描く長篇『マーティン・ドレスラーの夢』など、無限の彼方にあるものへひたすら接近していくクリエーターを登場させてきた。「映画の先駆者」もその系譜に属する。そして、彼らはその目標に達したとき、現世的な意味では破滅する。
 ただし、この作品では破滅とは言い切れない。クレーンは私たちの前から姿を消すが、それは自分の絵のなかへ入っていっただけかもしれない。あるいは、始原的な場所へと戻ったのかもしれない。この物語の結末で、読者は寂寥感とも憧憬ともつかない感情を覚えるだろう。
「ウェストオレンジの魔術師」も十九世紀後半、途方もない目標に取り組む物語である。ただし、こちらは芸術ではなく発明が題材だ。魔術師と呼ばれる発明家は、電気、化学、冶金など、さまざまな分野で二十ものプロジェクトを同時に主導している。作中に名前は出てこないが、どう考えてもトーマス・エジソンだ。エジソンといえばニュージャージー州メンロ・パークの研究所が有名だが、その研究所は1887年に同州ウェストオレンジへ移転しているのだ。
 この作品は、魔術師の研究所の図書室に勤務する「私」がつけている日記として、1889年10月から進行形で語られる。私は技術的詳細がわからぬままに、とある開発の被験者になった。魔術師はフォノグラフ(蓄音機)によって音の再現を可能にし、視覚でも同様のことを試みてキネトスコープを開発中だが、新しいプロジェクトはその触覚版ともいえるハプトグラフである。担当する技師キステンマッハーは言う。

「十年後、二十年後には、脳のしかるべき中枢を刺激することで、触覚上の感覚を創れるようになるかもしれない。それまでは、皮膚をじかに征服するしかない」

 そう、キステンマッハーが目論んでいるのは、触覚の記録・再現にとどまらず、ひとがいままで経験したことのない感覚の創造なのだ。ハプトグラフの〈箱〉に入るセッションが繰り返され、私はさまざまな触感を体験するが、あるとき、ほんの数秒だけ空を飛んでいる感覚を覚える。いっぽう、被験者のなかにはハプトグラフにかかるのを拒否する被験者もあらわれる。研究所は新しい発明への期待といいしれぬ不穏な空気が拮抗している。
 そのあいだにも、キステンマッハーはハプトグラフの改良に打ちこみ、未探索の領域、触覚の最前線へと突き進んでいく。そして被験者の私は、ついに言葉で表現できない感覚に味わう。新しい人生が手招きしている。影のように迫りくる。いわば寸前感。
 それは、もはや触覚だけのことではなく、新しい宇宙だ。
 SFのカテゴリでいえばバーチャル・リアリティだが、そう解釈したとたんに、せっかくのヴィジョンが矮小化されてしまう。ミルハウザーがミルハウザーたるのは、外側から世界を捉えようとせず----さらにいえば世界の外側などはないとわかって----語るところにある。
「ウェストオレンジの魔術師」は、「映画の先駆者」と異なり、達成/破滅の手前で物語が終わる。語り手の私は日記をつけるのをやめ、日常へと戻っていく。それは諦めなのか、救いなのか。
「映画の先駆者」と「ウェストオレンジの魔術師」は、語りのスタイルの面でも、テーマの展開においても、対照させて読むといっそう味わい深い。この二篇は「異端の歴史」と題されたセクションのなかの二篇である。『十三の物語』は全体が四つのセクションに分かれていて、頭から順番に「オープニング漫画」一篇、「消滅芸」四篇、「ありえない建築」四篇、「異端の歴史」四篇----の構成だ。
 おそらくSF読者にとっていちばん取っつきやすいのは「ありえない建築」だろう。「ザ・ドーム」は家屋をドームで覆う建築が考案され、それが徐々に改良・エスカレートしていき都市ごとドームに収めるようになる。まるでアシモフの『鋼鉄都市』だが、そこはミルハウザーなのでメタフィジカルなところまで拡大してしまう。
「ハラド四世の治世に」は、逆にどんどん微細な領域へ入っていく物語。精密細工師が尋常ならざる完成度を追究して、ついに目で見えないほどの微細な工芸品(もちろん細部が克明に創られている)を実現する。細工師は確信している。そこには無限の世界があるのだ。しかし、もはやそれを確認するすべはない。
「もうひとつの町」では、自分たちの町と瓜ふたつの町が、北の森の向こう側にある。そのもうひとつの町の起源、それがどのように維持され、いかなる機能を果たしているかが語られる。

言うまでもなく、もうひとつの町はひとえに私たちの訪問を受けるためにのみ存在するのであり、誰も住んではいないのだ。

 なんとも秘密めいているではないか。もうひとつの町の子細もだが、それを欲する私たちの心のありかたが謎だ。
「塔」は、天の底を突き破るほど高い塔の建造をめぐる年代記。幻想都市小説でもあり、どこかカフカ「万里の長城」やバラード「大建築」を髣髴させるところもあるが、ディテールの精緻な描きこみによって独特の質感が醸される。
 ミルハウザーの新しい邦訳を待ちわびていた読者も多いだろう。また、いままでミルハウザー作品を読んだことのないかたにとっても、この作家の魅力にふれる第一歩として格好の一冊だ。
(牧眞司)


『十三の物語』
著者:スティーヴン・ミルハウザー
出版社:白水社
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