古市憲寿の「おじいちゃん論」 で考える…「私はおじいちゃんなんでしょうか?」

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2018年08月16日 01:00  citrus

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私が過去に書いてきたいくつものコラムを改めて振り返ってみると、社会学者の古市憲寿氏(33)による発言や主張の引用が、けっこう多いことに気がついた。

 

ここ一年間でcitrusにアップした原稿だけでも、安室奈美恵引の退宣言以降アムロに誰も「NO」と言えない空気が蔓延しつつあることをチクリ皮肉ったもの、福田元財務相事務次官セクハラ問題の根元的要因について言及したもの、AKB48グループ総選挙放映の副音声にAKBにはまったく興味がない氏が登場したこと……と、ザッと数えただけでも3本! いくら土日休日を除いて毎日更新しているとはいえ、この打率は異常なほどに高い。citrus以外でも「W杯ロシア大会でもっとも株を上げたコメンテーターは、ワールドカップは(テレビで)観ません、と断言し、(当時は)地下に潜伏せざるを得なかったアンチサッカー派の支持を受けた古市憲寿。それに張本勲」みたいなことを書いていた。簡単にこう認めてしまうのも少々癪ではあるけれど、たぶん私は古市氏のモノの考え方や自己演出の仕方が、わりと好きなのかもしれない。

 

デイリー新潮でも、じつに同感できる「おじ(い)さん論」を寄稿なされていた。要約すれば、以下の通りとなる。

 

「おじさん」とは、ただの「中年男性」という意味ではなく、自己批判のない既得権益層のことを指す(=女性でも「おじさん」となりうることがある)。

 

仮に「おじいちゃん」の定義を、他人や社会に興味を持たず、自分語りや昔話に終始する人とした場合、それに『とくダネ!』で共演している小倉智昭は当てはまらない。小倉さんは、よく他人の話を聞く。そして貪欲に新しいものを吸収しようとしている。その姿勢は「おじいちゃん」からはほど遠い。

 

作家が一番成長するのは、「自分には才能がない」と大騒ぎする時だと聞いたことがある。(中略)自身が成長することによって、これまで見えていなかった細かな差異に気付く。そこで初めて「自分には才能がない」と大騒ぎし、その気付きは、作家を成長に導く。作家に限らず、何の仕事でも同じだと思う。「まあ、こんな感じでいいかな」と思った瞬間、誰も(若い人でも)が「おじいちゃん」になってしまう。

 

私の古い友人が編集長を務めている、ビジネスパーソンや就活生向けの経済メディア『NewsPicks』が6月下旬、日本経済新聞の朝刊に打った全面広告「さよなら、おっさん。」でも同じような内容の“激”が掲載されていた。はたして、私は古市氏や『NewsPicks』の編集長およびCEOの目に、ちゃんと「おにいさん」と映るのだろうか? 古市氏とはまだ面識もないが、もし対談の機会でもあれば「ゴメスさんの姿勢は『おじいちゃん』からほど遠い」と褒められたいものである。

 

ただ、古市氏は同コラム内で、

 

もっとも「おじいちゃん」は楽でもあろう。世の中についていくのをあきらめて、見知ったメンバーで、ずっと同じような話をしていればいいのだから。それは天国のような情景でもある。個人的には「おじいちゃん」になるのは、死んでからでいいのかなと思う。

 

……とも述べている。30代の“若者”が抱く想いとしては、まことに前向きかつ健全な野心だと言えよう。が、現実的な話、私のようにまもなく還暦を迎える50代半ばあたりになると……「見知ったメンバーで、ずっと同じような話をしている天国のような情景」も、あながち悪くないな……といった“誘惑”にも、にわか襲われてしまうものなのだ。そして、こういった鬩ぎ合い、葛藤を何歳まで自覚し続けることができるのかが、私のこれからの余生における大きなポイントとなってくる。20代や30代のおねえちゃんを“恋愛対象”と見なせているうちは、辛うじて大丈夫な気もするが……(笑)?

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