新たな発見を与えてくれる役割に 『ムタフカズ』が照らし出すアニメーション業界の現状

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2018年10月16日 11:02  リアルサウンド

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 セーラー服の女子学生が空を飛翔するわけでなく、四季の移ろいとともに若者の恋愛を丹念に描いていくわけでもなく、さらには巨大ロボットや怪獣やアイドルが登場するわけでもない。アニメーション映画『ムタフカズ』は、そのタイトルが「マザーファッカーズ」を意味することが予感させるように、近年の日本のアニメ文化がセールスポイントにしてきたものとは、かなりの部分で違ったものを、われわれ観客に提供してくれるアニメーション映画だ。


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 貧困者たちが寄せ集まり、メキシコの犯罪はびこるゲットーのようになったアメリカ西海岸。その荒廃した都会のなかを、中国マフィアや日本のヤクザをイメージした黒服の男たちや、「カラーギャング」と呼ばれるアフリカ系ストリートギャングが闊歩する。追跡や抗争の裏にある陰謀。それを追うメキシコのプロレス“ルチャ・リブレ”の選手たち。本作の登場人物たちが生きる、このようなゴッタ煮のような街が、本作の舞台となる「D.M.C.(ダーク・ミート・シティ)」である。


 さて、そんなパワフルな街を舞台に、銃撃と血しぶきのなかをくぐり抜けてゆくスラムの少年たちの活躍を描いた奇妙なアニメーション映画『ムタフカズ』とは、一体何なのだろうか? ここでは、その制作背景と内容を追いながら、この特異な存在が、はからずも照らし出したアニメーション業界の現状について考えていきたい。


 同名の原作コミック(バンド・デシネ)『ムタフカズ』を描いたフランスのアーティスト、ギヨーム・ルナールは、フランス人プロデューサーとともに、このコミックの世界をアニメーション作品にするために動いていた。そこで白羽の矢が立ったのが、日本のアニメーション制作会社、STUDIO4℃である。


 STUDIO4℃といえば、カナダのモントリオール・ファンタジア国際映画祭でグランプリを受賞し、カルト映画として海外で評価が高い『マインド・ゲーム』(2004年)や、アメリカ出身のCGアーティスト、マイケル・アリアスを監督に、松本大洋のコミックを原作とした『鉄コン筋クリート』(2006年)など、日本のアニメーション業界のなかでも、とくに個性的で従来の型にはまらない作品を手がけてきた。このフランスの原作コミックを日本でアニメーション化するなら、「ここしかない」という選定である。


 ギヨーム・ルナールとともに共同監督を務めるのは、ベテランのアニメーター西見祥示郎だ。彼は『マインド・ゲーム』や『鉄コン筋クリート』での作画はもちろん、実写映画のアニメパートや、TVゲーム『キャサリン』などのアニメーションを担当するなど、とくにヴィジュアル・センスに優れた仕事をしている。それぞれの特性を考えると、本作の制作体制は、ギヨーム・ルナール監督が全体の統括や、作品のテーマなど核の部分を構築し、その面白さにアイディアを加えながら増幅させ、実際の演出やアニメーションとしての作画を行うのは西見監督とSTUDIO4℃が請け負うというかたちであろう。


 やはり面白いのは、コラボレーションの妙だ。おそらく多くの観客が感じる通り、本作は紛れもなく日本のアニメーションの文法で描かれた、日本の作品である。例えば、銃の重みや発射時の反動など、重力の存在を強調し、身体性に優れる職人的なアクション表現は、いちいち観客の快楽を呼び覚ます。アニメーションはどんな動きでも描けてしまうはずだが、あえて重力という制約を課すことで、逆に動きに魅力を加えているのだ。アニメーションの動きに、このような倒錯したアイロニーを持ち込んでいるのは、一部の日本アニメーションにおける特徴である。本作が楽しいのは、それにも関わらず、日本のスタッフだけでは出てこないような発想も、随所に見られるところなのだ。


 例えば、主人公の少年アンジェリーノは真っ黒な影のような見た目に、目だけが張り付けてあるような、『名探偵コナン』に出てくる「謎の犯人」のようだし、その親友ヴィンスもまた、頭がガイコツで、常時頭に炎がゆらめいているというホラーなキャラクターなのだ。それでいて、彼らはとくに目立つこともなく、周囲に馴染んで暮らしているのである。


 日本の漫画でも、古くは田河水泡の『のらくろ』のように、『フィリックス・ザ・キャット』など海外のアニメーションやカートゥーンの強い影響下にあった時代は、このような擬人化したキャラクターが説明もなく混在する世界観というのはよく見られていたが、よりリアルな演出や設定が用いられることが多い「ストーリー漫画」が主流になってからは、そのような曖昧な世界観は、日本では次第に異端的なものになっていった。


 ディズニー作品などに大きな影響を受けたという、漫画家・鳥山明もまたそのようなカートゥーン的世界観を受け継ぐ漫画家の一人だが、それでも『DRAGON BALL』の後期では、シリアス化する内容にともなって、人種などの設定に理屈が追加されるなど、日本的文法に沿うものになっていったといえる。


 その状況は、子供向けの『アンパンマン』など、少なくない例外があるとはいえ、漫画文化と密接に関わるアニメーションも同様で、予算がかかる劇場長編アニメーションとなればなおさらである。ギヨーム・ルナールによる原作コミックにある、細密な画風とリアルなアクション表現が、落書きから派生したようなキャラクターに託されているという世界を、いまあらためてアニメーション化してみると、ちょっとギョッとしてまうのは、そういうところなのだ。


 しかし、もともと漫画やアニメーションというのは、むしろそういうナンセンスな世界を描くことこそが本道であったはずだ。全身が影のようでも、頭が燃えたガイコツでも、歯にヒップホップ風のアクセサリー(グリル)を装着した子犬が、何の説明もなくメインキャラクターになっていてもいいじゃないかという気分にさせてくれる。そしてそれは、日本のアニメーションが、(例外はあるものの)大きな流れとして失いがちになっていたセンスなのではないだろうか。


 また、この主要な3人組は、ギヨーム・ルナールが名乗る別名「RUN」と、本作の登場人物たちが生きる街のネーミング「D.M.C.(ダーク・ミート・シティ)」と合わさることで、80年代から活躍していたレジェンド的なラップ・グループ、“Run-D.M.C”の関係性を想起させるように、本作ではストリート・カルチャーも重要な要素として扱われている。


 このような多様な要素が、どこから選ばれているのかというと、それは原作者でもあるギヨーム・ルナール本人の趣味趣向という他ない。「D.M.C.(ダーク・ミート・シティ)」は、危険なディストピアであると同時に、ルナールが体感し受け入れてきたカルチャーを合体させ、具現化したユートピアなのだ。この世界観におそらく直接的に影響を及ぼしたのは、大友克洋による漫画、アニメーション映画『AKIRA』ではないだろうか。そうなると、日本のスタジオがこれを映像化することに、より意味が出てくる。ちなみに西見監督は、アニメ版『AKIRA』の作画スタッフだった。


 ここで重要なのは、『AKIRA』がそうであったように、本作が一個人の描きたいことをそのままやりきっている、個人的な価値観で創造された作品だという点であり、それがさらに日本の外部からもたらされているという点である。


 アニメーションを提供する側が、受け手のニーズを先回りして、欲しがっているだろう価値を提供する。提供される側もそれを限定的に楽しみ、作り手に欲しいものを要求する。一部の商業的な日本のアニメは、この共犯的なサイクルが回り続けるなかで、予想の範囲に収まる事務的なものが増え、双方にとってビジネス的でドライな関係が出来上がってしまっているように感じられる。そこに欲しいのは、新しい風であり、アツい情熱だ。


 コミック作品を一本の映画にするため、本作はストーリー上では一つの典型的な構造を用いているのは確かである。しかし、それを補って余りあるオリジナリティが、本作にはある。外からの文化や感覚、そして、とにかく自分の描きたいものをやりきるという姿勢を貫く作品は、停滞した業界に刺激をもたらし、新たな発見を与えてくれる役割を担う。野心を持つ、作家性の強い作品を世に出そうとするギヨーム・ルナールやSTUDIO4℃の試みは、その意味で貴重なのだ。(小野寺系)


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