2018年、日本映画はニューフェーズへ(前編) 立教、大阪芸大の90〜00年代、そしてポスト3.11

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2018年10月21日 10:02  リアルサウンド

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 この2018年、日本映画には様々な形で刺激的な動きが起こっている。しかし目立つ現象の方向性は分散しており、大きな傾向は極めて捉え難い状況。そんな中、筆者はどれくらい新しい地図を描けるのだろうか? これはシーン全体の概観に向けての、ささやかな素描の試み。逡巡や拙さを含む論考になるだろうが、温かい目でお付き合いいただければ幸いである。


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 まずは乱暴な手つきなのを承知で、近過去の流れをざっくり整理したい。筆者(1971年生まれ)が同時代の映画と、映画批評を同時に意識しはじめた90年代。日本映画における若手作家の先端に立っていたのは、ある特定のスクール出身者たちだった。それは時に「立教ヌーヴェルヴァーグ」などとも呼ばれる一群。立教大学の自主映画制作サークル「パロディアス・ユニティ」に関わりつつ、同大学で映画表現論の講義を行っていた評論家・蓮實重彦の薫陶(強い影響)を受けた映画作家たちである。具体的には黒沢清(1955年生まれ)から青山真治(1964年生まれ)までの世代。万田邦敏(1956年生まれ)、塩田明彦(1961年生まれ)、篠崎誠(1963年生まれ)あたりが代表選手だろう。例えば森達也(1956年生まれ)などは周辺にいたという事実があるにしても、まったく独自の道に進み、作家的傾向や表現者の本質としては明らかに距離があると思う。


 彼らの特徴をひと言でいえば、ハードコアなシネフィル集団。いわゆる実作の現場を超えて、『リュミエール』や『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』といった批評誌とも深くリンクしていく。本家フランスのヌーヴェルヴァーグ(ゴダール、トリュフォー、ロメール、リヴェット、シャブロル……)が『カイエ・デュ・シネマ』を拠点としつつ、批評と創作の回路をつなぐ形で自分たちの新しい映画を提唱していったのと同様の営為だ。それはシネマエリートの運動体とも言え、必然的に教養主義の属性を生む。志を共有する作家や批評家陣は(スクールの枠組みを超えて)党派的に見られることが多く、作品には様々な「映画的記憶」が装填されたメタシネマ的な位相が宿ることになった。


 そんな彼らの突端部分は、まもなく国際的な舞台へと進出していく。例えば黒沢清の『回路』(2001年)や青山真治の『EUREKA ユリイカ』(2000年)がカンヌ映画祭で受賞を果たしたり。同じくカンヌ受賞組では、立教以外から隣接地帯に合流した『M/OTHER』(1999年)の諏訪敦彦(1960年生まれ)も加えたい。その過程で黒沢や諏訪などは、日本の資本だけではない(主にフランスと提携した)映画作りを切り拓いていくための興味深い実践的変化を見せるようになる。ちなみに是枝裕和(1962年生まれ)が『DISTANCE』でカンヌ進出したのは2001年。続いて『誰も知らない』をカンヌに出品し、当時14歳の柳楽優弥が最優秀主演男優賞を獲得したのは2004年だ。


 そのタイミングと交差するように、ずいぶんユルい佇まいでゼロ年代に台頭してきたのが、大阪芸術大学の映像学科で学んでいた若者たちである。彼らが次の“新しい波”となった。


 具体的には熊切和嘉(1974年生まれ)の伝説の卒業制作にしてPFF(ぴあフィルムフェスティバル)準グランプリ作『鬼畜大宴会』(1997年)にスタッフとして参加していた面々だ。それが「真夜中の子供シアター」という名義の制作チームへと展開し、監督・山下敦弘(1976年生まれ)、脚本・向井康介(1977年生まれ)、撮影・近藤龍人(1976年生まれ)という布陣で『どんてん生活』が生まれることになる。このエポックな1本は1999年に卒業制作として発表されて評判を呼び、2001年に劇場公開の運びとなる。


 本作はタイトルが指し示すように、彼らの「生活」のリアリティに根差したもの。無職の青年がパチンコ店で出会った奇怪なヤンキーに連れられて、裏ビデオのダビング仕事に手を染めていく。ウダウダした無為な日常の風景。アキ・カウリスマキやジム・ジャームッシュからの影響を指摘されはしたが、先行の「立教ヌーヴェルヴァーグ」式の知的でメタな引用というより、オフビートなフィーリングの同期性が高かったわけだ。基本的には反エリーティズム的であり、地べたから映画表現を立ち上げたことが重要であった。


 興味深いことに、彼らの作風や制作スタイルはゼロ年代のアメリカン・インディーズにおける先端的なシーンと共振していた(しかも時期的には大阪芸大組が数年先駆けていた)。それがNYを拠点にしたマンブルコアと呼ばれる運動体である。サークル活動の延長のようなノリで、20代男女のモラトリアムな等身大の日常を、友達同士のスタッフ・キャストにより簡素なDIYスタイルで映し出す。主要メンバーには南イリノイ大学を経て長編映画を自主で撮り始めたジョー・スワンバーグや、彼の元カノであり、いまやオスカー候補の監督作『レディ・バード』(2017年)で時代の寵児になったバーナード大学出身のグレタ・ガーウィグなどがいた。


 半径5メートル的な日常の、一見非政治的に映る身内ノリな青春の風景には、実は新世代の感覚による政治性が静かに装填されていたのも重要なポイントだ。NYのマンブルコアがポスト9.11の不安や虚無だとしたら、大阪芸大組はポスト・バブルの「失われた20年」が土壌。山下たちが『ばかのハコ船』(2002年)『リアリズムの宿』(2003年)と続けていった下流の青春像、ダメ男子映画のアートフォームには、先の見えない倦怠と、カネのない仲間たちとのレイドバックした時間から生じる微温的な幸福感が共存している。それを大手の商業映画や先行のシネマエリート的な価値観に対抗するものとして捉えると、ある種ネオプロレタリア運動的なニュアンスを自動的に帯びていた。


 その意味でスクールは異なっても松江哲明(1977年生まれ)の『童貞。をプロデュース』(2007年)や、入江悠(1979年生まれ)の『SR サイタマノラッパー』(2009年)などは「大阪芸大マンブルコア」からの潮流を強化したゼロ年代の太い幹となる成果であり、彼らは山下たちより意識的かつ明晰に「日本論」を描き出した作家と言える。そして大阪芸大の後続からは、『剥き出しにっぽん』(2005年)や『川の底からこんにちは』(2010年)の石井裕也(1983年生まれ)という、労働といった価値観の付与により、ぬるま湯的状況の打破や仕切り直しを提案する作家が現われ、同系のコンテクストがより年少の視座で延長・更新される様を見ることができる。


 ちなみに筆者自身は批評の書き手として、この「大阪芸大マンブルコア」から派生した流れに加担していた自覚が強い。もちろん同時代の感受性が染み込んだクリエイションに心底共感したからだが、率直に言うと、蓮實イズムに庇護されている印象もあった先行世代や、シネフィルの特権意識を振りかざす既存の批評状況への青臭い反発の気持ちもあったのだと思う。


 ただしいまとなっては「立教ヌーヴェルヴァーグ」も「大阪芸大マンブルコア」も、個々の作家たちはそれぞれのステージへ歩みを進めている。とっくに初期段階のカテゴリーや党派性は霧散あるいは歴史化したと言うべきだ。年齢的にもほとんどが40代以上となり、巨匠や中堅といったポジションに移行していったいまの彼らを、こういった出自で区分けするのはまったく無意味であろう。


 さて翻って現在、である。少なくとも党派的な沸騰は起こっていない。もしスクール別に現状況を捉えたとしても、見えてくるものはあまりに小さい。


 また、いまの我々には2011年の東日本大震災の傷跡――ポスト3.11の軋みや痛み、未来へと生き抜いていくための具体的な難題が現在進行形の問題として圧し掛かっている。この強烈なオブセッションは、東宝の『シン・ゴジラ』や『君の名は。』(共に2016年)、自主映画やドキュメンタリーまで日本映画の全域に遍在するもの。いや、というより、日本から発信されるすべての表現が逃れようもなく本題を共有している。こういった全状況を覆う巨大なテーマが存在するぶん、逆に「映画」というフレームでの突出が見えにくいのだ。


 その中で新しい波を探そうとした時、おそらくそれは複数存在する、といった視座がまず必要だろう。ではどういった動きに我々は着目すべきだろうか?


 現在の日本映画において、分散した形状で現われる新しい波を捉える試み。そのうえでひとつ示唆的なのが、本サイト『リアルサウンド映画部』で掲載された、音楽家・文筆家、菊地成孔が濱口竜介監督の『ハッピーアワー』(2015年)について論じた「『シネフィルである事』が、またOKになりつつある」というテキストだろう(『菊地成孔の欧米休憩タイム』blueprint刊所収)。この中で菊地は一度「ウザがられるようになった」シネフィル性が、旧世代とは異なる形で「アリ」に戻ってきた「反動」を指摘している。


 ここからは筆者なりの要約になることを許していただきたい。マニア的な特権意識や面倒臭さのせいで、長らく多くの観客が「陰性感情を持って排除していく」流れにあったシネフィル性が、例えばあっけらかんとゴダールやロメールを参照しつつ快楽的に映画を撮る韓国のホン・サンスあたりを嚆矢として、今度は「陽性感情を持って迎えいれて持ち上げる」方向に転じた、と。しかも現在のシネフィル的作り手は教養主義的な抑圧(「知らない」「わからない」ことのコンプレックス)から遠く離れて、ごくフラットな佇まいを基盤に、自分なりの新しいメソッドの組み立てこそを課題としている。そういった「ニュー・シネフィル」が新たな潮流になりつつあるのではないか、という見解を示している。


 おそらくこれはひとつのご名答と呼ぶべきものだ。映画研究者の三浦哲哉も書き下ろしの著書『ハッピーアワー論』(羽鳥書店刊)で菊地の同テキストを引きつつ、「『ハッピーアワー』は過去の作品へのリスペクトをはっきり示しているが、しかし、それにもたれかかってはいないし、目配せの目配せは皆無である」とする。駆使されているのはマニアのエリーティズムとは無縁な具体技法としてのシネフィル性であり、「世界をまあたらしく見させること」に向けて「映画作りの方法論を一から吟味し、作り直すこと」を試みたマスターピースとして熱烈な評価を捧げている。


 筆者も彼らの認識には概ね賛同する。だが、そこでもうひとつ転がして考察すべきなのは、「ニュー・シネフィル」勃興あるいは起動の理由だ。つまりなぜシネフィル性が観る側の「アリ」だけでなく、単なる流行のサイクルとしての揺れ戻しだけでもなく、映画を立ち上げて動かす方法としてもここに来て優位性を伸ばしてきたのか? それはおそらく日本映画の規模の問題も大きく関わっている。(中編に続く)


森直人(もり・なおと)
映画評論家、ライター。1971年和歌山生まれ。著書に『シネマ・ガレージ〜廃墟のなかの子供たち〜』(フィルムアート社)、編著に『21世紀/シネマX』『日本発 映画ゼロ世代』(フィルムアート社)『ゼロ年代+の映画』(河出書房新社)ほか。「朝日新聞」「キネマ旬報」「TV Bros.」「週刊文春」「メンズノンノ」「映画秘宝」などで定期的に執筆中。


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