生まれてきた娘には障害があった――家事もする大学助手の夫との生活は順調に見えたが……

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2018年01月10日 18:04  サイゾーウーマン

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サイゾーウーマン

Photo by wontolla-gdl from Flickr

『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?

第12回 東智恵子さん(仮名・51歳)の話(前編)

「ある日突然、家の鍵を替えられて、中に入れなくなりました。それは別居して1年半後のことです。『なぜ入れてくれないの?』と元夫へメールしたら、『おまえは娘を虐待する。家に入れたら、どんな嫌がらせをされるかわからない』という抗議のメールがすぐに届きました」

 そう話すのは、東智恵子さんである。そもそも、なぜ別居したのに、家に入ろうとしたのか? なぜ夫から「虐待する」と言われているのだろうか? 詳しい話を聞く前に、まずは生い立ちから伺っていった。

■大学のサークルで知り合った、おとなしい男性と結婚

――ご出身はどちらですか? どんな子ども時代だったのですか?

 北関東で生まれました。うちの父が高校の数学教師だった関係で、その県内各地を転々としながら育ちました。東京大学か大学の医学部に入ることを父からは期待されていて、それに応えるべく、私は勉強に励みました。しかし、東大は不合格。都内中堅大学の理系学部に入学しました。

――旦那さんとは、どうやって結婚に至ったんですか?

 元夫とは、大学のインカレサークルで知り合いました。もう30年以上前のことです。メンバーの中では、比較的二枚目。静かに本を読んでいるのが好きな、おとなしい哲学者タイプでした。私の兄がおせっかいでうるさい人なので、それとは真逆のタイプである彼に惹かれていきました。この人と結婚すれば、平和で落ち着いた暮らしができるんじゃないかなって思って、元夫を結婚相手として意識するようになっていったんです。そして、数年間交際したのちに結婚しました。私が教師として就職した頃のことです。

――子どもが生まれるまでは、どのような結婚生活だったんですか?

 結婚当時、元夫は大学院生で収入がなかったので、生活費の多くは私が賄っていました。2年後、彼が関西の大学に助手として採用されることになったのを機に、私は教師を辞めてついていったんです。もともと教師には向いてなかったし、ちょうど妊娠したこともあって、教壇を降りることにためらいはありませんでした。元夫が就職して半年がたったタイミングで、長男が生まれたんです。

――子育ては大変だったのではないですか?

 いえ、全然大変ではなかったです。あまり泣かずにニコニコしている、それでいて食欲は旺盛という、絵に描いたような育てやすい子どもだったんです。というか、あまりに手がからないので、息子が生後半年の頃、仕事を見つけて働くことにしました。

 幸い、ソフトウェア開発の会社に採用されたので、働き始めたんです。そこは女性や若い人が多く、マイペースで働ける職場でした。夕方に帰れる労働環境で、私に向いていると思いました。

――働きながらだと、旦那さんに育児をサポートしてもらうことも必要になってきますよね。

 日中は、近所の保育園に世話を託し、熱を出したりしたときは、ベビーシッターさんやファミリーサポートにお願いして乗り切りました。夫は、息子をすごくかわいがりましたね。私へのサポートも積極的で、助かりました。例えば、私が疲れて起きられないときは、代わりにおむつを替えてくれたり、ミルクや離乳食を与えてくれたりしたんです。いま考えれば、元夫自身、働く母親のもとで育てられた経験があるので、男が家事をするということに拒否反応がなかったんでしょうね。

――その後は、どうなったんですか?

 2人目が欲しかったんですが、なかなかできませんでした。それで何年も不妊治療を続け、長男が生まれてから6年目に、やっと妊娠したんです。私たちはそれを機に生活環境を変えました。私は離職し、夫、長男とともに、奈良の新居に引っ越しました。

――長男のときと同様に、妊娠を機会に住環境を変えられたんですね。では、第二子の出産後について、話をお聞かせください。

 引っ越してから半年で生まれてきてくれたのかな。女の子でした。長男は生まれたときから元気いっぱいでしたが、長女は、長男とは様子がまるで違ったんです。取り上げてくれた助産師さんが見せてくれた娘の体はふにゃふにゃしていて、手足に力が入っていませんでした。普通、赤ちゃんは、手をぎゅっと握っていますが、いつも伸ばしていたんです。それでも、生まれてきてくれた喜びと、産み終わったことから来る安堵感で、これからどうしようとか、そんなことは、そのとき一切思わなかったですね。それで、後日、医者に告げられたのは、低緊張(筋緊張低下症)という病名でした。

――体の障害があったんですね。とすると、育ち方は健常児とどのように違いましたか?

 首の据わりが遅かったり、ハイハイができなかったりしました。動かせる部位はどんどん増えていきましたが、それでも体の動きは普通の子に比べてゆっくりでした。外出すると怖がって、公園に連れていっても遊具で遊ばないし、じっとしていて、声をかけないと私のほうには来ないんです。

 娘が障害で苦しまないよう、私は復職した仕事の傍ら、日々娘のリハビリに付き合いました。トランポリンや鉄棒や水泳を続けていくうちに、娘は体力をつけていき、小学校の中学年にはマラソン大会で完走できるまでになったんです。

 娘の成長は、知能面でも遅れていました。発語は遅くて、4歳ぐらいになっても、「これ」とか「あっちあっち」とか二音節しゃべるのがやっとで、なかなか会話にならなかった。保健師に勧められたこともあって、教育委員会が主催する“ことばの教室”に通わせたんです。そこへの送り迎えこそは元夫がやりましたけど、それぐらいですね。元夫がやってくれたのは。

――その頃、旦那さんと息子さんは、どのような様子でしたか?

 娘が小学校に入る頃、長男は中学生。学業も優秀で、体も頑丈。病気ひとつしない子どもでした。夫は助教授、そして教授と、着実に昇格し、それとともに収入も増えていきましたが、その頃から、私との関係は冷めていき、次第に自分の部屋にこもるようになりました。食事は一緒には食べず、私が作ったものを部屋まで運んでいたんです。家事は一切やらず、子どもたち、特に娘の養育は私に任せっきりでした。

(後編へつづく)

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