東武のディーゼル車「カメ号」が走った熊谷線廃線跡を行く

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2017年12月01日 11:23  マイナビニュース

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●地元民に愛された妻沼線の歴史--高崎線とのオーバークロスもあり
かつて関東の大手私鉄・東武鉄道に、沿線の住民から"妻沼(めぬま)線"と呼ばれ親しまれた熊谷線という路線があったのをご存じだろうか。東武熊谷線(以下、妻沼線)は、高崎線、秩父鉄道が乗り入れる熊谷駅から利根川の南に位置する旧妻沼町(現・熊谷市妻沼)までの、およそ10.1kmを結んでいたが、赤字などを理由に昭和58(1983)年に廃止になった。今回は、今はなき妻沼線の廃線跡を旅してみよう。

○妻沼線が歩んだ歴史

妻沼線は元々、太平洋戦争中に、利根川を挟んで北側の群馬県太田市や小泉地区(現・大泉町)にあった中島飛行機工場の工員と資材輸送の必要から敷設された「軍需路線」だった。工事は二期に分けて行われる予定が組まれ、第一期工事は、熊谷と妻沼を結ぶもので、昭和18(1943)年11月に工事が完了し、同年12月5日から営業が開始された。これにより、高崎線沿線などに住む工員は列車で熊谷から妻沼まで運ばれ、妻沼でバスに乗り換えて利根川を渡り、工場に通勤したという。

続く第二期工事は、妻沼から橋梁敷設により利根川を越え、貨物専用線であった仙石河岸線(昭和51・1976年廃止)を経由して、群馬県南部の太田・館林・西小泉を結ぶ東武小泉線に接続する予定だった。しかし、日本最大の河川である利根川を越えるのは、戦時中の資材不足もあり難工事で、工事中に太平洋戦争終結を迎えた。橋脚(ピア−)が完成するまでは工事続行という方針がとられ、橋脚が完成した昭和22(1947)年7月に工事中止となった。

戦後、妻沼線の群馬県側への貫通の機運が高まったこともあったが、マイカーの普及などで利用者は減少し続ける。「昭和50年以降は年間赤字が2億円を超え、54年度決算では収入は4100万円、赤字は2億4千万円にのぼった」(朝日新聞昭和55(1980)年11月21日)という。

営業係数が500を超える不採算路線であることに加え、上越新幹線開通に伴う熊谷駅南口開設のための用地問題等もあり、昭和58(1983)年5月31日に廃止された。なお、廃線間際の昭和58年当時、列車の運行は1時間に1本程度、熊谷〜妻沼間の運賃は130円だった。

○かつてのレールがそのままに

それでは、実際に妻沼線の廃線跡をたどってみることにしよう。妻沼線には、熊谷・上熊谷・大幡(おおはた)・妻沼という4つの駅が存在したが、熊谷と上熊谷の両駅は、秩父鉄道のホームを借用していた。というのは、上記のような軍需目的により、急ピッチで敷設しなければならず、熊谷〜上熊谷間は"仮線"ということで秩父鉄道の複線化用地を借用して営業開始し、戦後も独自の線路敷設の投資ができずに、そのままになってしまったのだ。

熊谷から上熊谷までは、秩父鉄道の車窓から妻沼線の線路跡を眺めることにしよう。かつて妻沼線が発着していたのは、秩父鉄道の羽生方面行き列車が発着する現在の5番線だが、上熊谷に向かうには反対側の6番線から秩父方面行きに乗車する。

列車が出発し、最初の踏切のすぐ手前のポイントで、秩父鉄道のレールから、かつての妻沼線のレールが分岐する。かなり草むしており、踏切の部分はアスファルトで塞がれているとはいえ、廃線から30年以上が経過した今もレールが残されているのは感慨深い。熊谷駅出発からおよそ1分半で、列車は上熊谷駅のホームに滑り込む。

上熊谷駅は、南側の上越新幹線の高架と北側の高崎線の線路に挟まれ、さらにホーム上を国道407号の跨線橋(こせんきょう)が通過しており、なんとも肩身が狭そうに存在する小さな駅だ。駅の構造は、駅舎から構内踏切を渡った先に島式ホームがあり、南側が秩父鉄道、北側が妻沼線用として使われていた。現在は、妻沼線側はフェンスで塞がれ使われていない。

○土盛りの上を走る妻沼線

駅改札を出て国道407号線の跨線橋に上がれば、並走する各線の線路の様子を一望することができる。奥の上越新幹線の高架のすぐ下に見えるのが秩父鉄道(単線)で、中央付近の草むしたレールがかつての妻沼線(単線)。手前を走るのは高崎線(複線)で、この先で籠原方面に向かって右方向に大きくカーブしていく。

橋から下りたら、しばらく新幹線の高架に沿って歩いて行き、2つ目の踏切を渡ろう。かつての妻沼線は、この踏切付近で秩父鉄道から離れ、大きく北に向かってカーブして、妻沼を目指していた。

妻沼線の線路は踏切付近で途切れており、この先しばらくは、廃線跡は「かめの道」という遊歩道として整備されている。この「かめの道」という名前は、妻沼線の愛称に由来する。

開業から昭和29(1954)年にディーゼルカーが導入されるまでの間は、鉄道院(国鉄)から譲り受けた英国製の蒸気機関車が客車を牽引していたが、10.1kmを24分もかけて走るため、地元の人たちからは「ノロマ線のカメ号」と呼ばれていた。それが、昭和29年に「キハ2000形」ディーゼルカーが導入されると、一気に17分に短縮されたことや見た目から、今度は「特急カメ号」と呼ばれるようになったという。

遊歩道は石原公園という公園内を抜けていく。園内には、踏切の警報器を模したオブジェや防災用品の倉庫として使われている「カメ号」の形をしたコンクリート製の建物があるほか、公園と道路の境界に残る鉄道時代の境界柵が、わずかに鉄道の廃線跡だった記憶を今に伝えている。

そして、県道を越えた先に最初の大きな見所が存在する。遊歩道の行く手に小高い土盛りがあり、上ってみるとその先を高崎線が通過し、対岸にも土盛りが見える。ここは、かつて妻沼線が高崎線をオーバークロスしていた場所なのだ。

当時の写真を見ると、この土盛りは河川の堤防のように見え、延長1.5km、高さ最高4.2m、幅平均13mもあったという。廃線後、土盛りは熊谷市街を文字通り"分断"していたため撤去され、使われていた土砂は昭和63(1988)年に開催された「さいたま博覧会」に備えての、国道17号線「熊谷バイパス」拡幅工事時に再利用されたという。

さて、近隣の踏切を渡って高崎線の向こう側に回り込んで歩を進めると、間もなく国道17号とクロスするが、妻沼線はこの道も立体交差で越えていた。さらに、遊歩道は熊谷農業高校の敷地の間を進み、牛舎の外でのんびりする牛たちの姿が目に入ってくる。

その少し先で「かめの道」は終点になり、ここからしばらく、廃線跡はきれいに舗装された一般道路になっている。周囲の住宅を見ると比較的新しい家が多く、今の時代に妻沼線が残っていたなら、当時とは利用状況も随分違っていたのではないかと思う。ちなみに、廃線跡の道路はほとんどカーブがなく、どこまでも真っすぐに続いているが、これは妻沼線が軍需路線として敷設されたことから、集落や人口密度を考慮しなかったためだ。

大幡駅跡へ足を進めてみよう。

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○妻沼線跡が歩道しかない理由

田んぼの中に建つ大幡中学校を左手に見ながら歩いていくと、前方が車両通行止めになっている。この先およそ2.5kmにわたって、妻沼線跡は歩道のみ整備され、中央の車道が未整備状態になっている。

なぜこのような状態になっているのか、熊谷市建設部道路課に問い合わせたところ、県道359号線および県道341号線と交差する地点で、どのように接続するか等について警察と協議中であり、整備が進んでいないのだという。廃線から30年以上経過するのに、土地が有効活用されていないのはなんとももったいない。

さて先へ行くと、前方に熊谷バイパスの高架が見えてくるので、その手前でちょっと立ち止まってみよう。この付近は途中駅である大幡駅が存在した場所だ。昔の大幡駅のホームの写真を見ると、熊谷バイパスの高架が写り込んでいるので、駅のおおよその位置が特定できる。熊谷バイパスの全線開通が昭和57(1982)年であることも考え合わせれば、この写真は廃線間際の昭和57〜58年頃の大幡駅の様子なのだろう。

ちなみに、大幡駅には昭和18(1943)年の妻沼線開業と同時に建てられた駅舎があったが、昭和29(1954)年以降、無人駅になると荒れ果てた。その後、昭和52(1977)年3月に取り壊され、同年4月より、雨除け屋根の付いた待合室とトイレが供用開始になったという。

○鉄道がなくなっても人々の営みは変わらず

大幡駅跡から先は、2kmほどのどかな田園風景の中を歩いていく。気分転換の散歩にはいいが、鉄道に関係する遺跡はほとんどなく、廃線跡探索という意味ではいささか物足りない。わずかに、道路と田んぼの間に埋められた境界標に「東武」の文字があるのが、鉄道跡であることを示している。実は、廃線後も敷地は東武鉄道が所有し続けており、熊谷市に道路用地として無期限・無償で貸与しているというから、この境界標は現状を正しく表しているのだ。

さて、県道359号線および県道341号線を越えると、廃線跡は再び舗装道路に戻る。この付近ものどかな風景が広がっており、途中、田んぼから稲の収穫後に野焼きをする白い煙がモクモク上がっているのを見かけた。

入手した昔の写真の中に、野焼き後の煤(すす)けた田んぼの中を行く、妻沼線のディーゼルカーが写されたものがあるが、撮影されたのは今回の取材時と同じ、晩秋の頃だろう。鉄道がなくなったことを除けば、昔も今も風景に大きな違いはない。生活に根付いた風習は幾百年の間、四季の訪れとともに変わらず、行われ続けてきたのだろう。

この先で廃線跡は福川という川を渡るが、ここに架けられている橋が、その名も「東武橋」という。昔と今の写真を比べてみると橋の上物は交換されているが、橋桁は当時のままのようにも見える。熊谷市建設部維持課に問い合わせてみたが、資料が残っておらず、橋桁が鉄道時代のものがそのまま使われているかは判然としなかった。

○キハ2002号に乗ってみよう!

福川を越えれば、妻沼線廃線跡の旅もいよいよラストスパートだ。2kmほどで、かつての妻沼線の終着駅であった妻沼駅跡付近にたどり着く。昔の写真を頼りに駅跡の場所を探せば、現在の「ニュータウン入口」バス停付近が駅前ロータリーだったと見て間違いない。また、バス停付近の交差点から南に向かって道路脇に続く土盛りは、当時の航空写真や地元の人の証言を総合すると、妻沼駅ホームの痕跡だ。

さて、今回の旅のクライマックスとなる「熊谷市立妻沼展示館」を訪問しよう。妻沼駅跡のすぐ近くにある同館は、地元の歴史資料や文化財資料を展示する資料館で、館内に妻沼線の写真も展示されているほか、建物に隣接して妻沼線のディーゼルカーが1両保存されている。

この車両は、昭和29(1954)年に妻沼線に導入された3両のディーゼルカーのうちの1両であるキハ2002号車だ。展示館受付で職員に声をかければ車内見学もできるので、中に入ってみよう。まるで、昭和の時代にタイムスリップしたような感覚が味わえる。

なお、残りの2両の行方はというと、キハ2001号は展示用に東武動物公園に回送されたとする資料があるが、同園に問い合わせたところ現有していないという。2003号は船橋市の個人が所有していたが、老朽化のため解体されたという。

○余裕があれば群馬まで足を伸ばして

妻沼線は妻沼駅が終点だったわけだが、先にも述べた通り、利根川を越えて群馬県側へ延伸する計画があり、実際に利根川に橋脚を建てる工事も進められていた。橋脚は、昭和54(1979)年3月までに撤去されたが、利根川北岸の土手の外側、「いずみ総合公園 町民野球場」付近に、なぜか1脚だけポツンと残されている。

高さ7〜8mはあろうかという橋脚は、戦中戦後の物資不足の折につくられたからだろうか、なんとなく不格好な印象を受ける。ちなみに、妻沼展示館から橋脚のある群馬県側へは、刀水橋(とうすいばし)を渡り、徒歩30分ほどだ。

さて、この先は妻沼線と接続予定だった貨物線・仙石河岸線の廃線跡が、「いずみ緑道」として整備されており、たどっていけば東武小泉線の「西小泉」駅方面に抜けることができる。さらに小泉線で太田市へ行き、名物の「上州太田焼きそば」を食べるのなどもオススメだ。

取材を進めると、廃線から30年以上が経過し、かつて鉄道が走った痕跡も少なくなり、地元の人々の記憶も風化しつつあるという印象を受けた。なお、本文では紹介できなかったが、廃線跡周辺の見所としては「妻沼聖天山 歓喜院」という歴史ある寺院がある。桜の季節や、春秋に開かれる縁日にあわせて訪問してみてはいかがだろうか。

最後に、本稿を執筆するに当たっては、熊谷市立図書館が編纂した『写真でみる東武熊谷線』を参考にさせていただいた。この場を借りて感謝申し上げたい。

○筆者プロフィール: 森川 孝郎(もりかわ たかお)

旅行コラムニスト、オールアバウト公式国内旅行ガイド。大磯町観光協会理事。鎌倉ペンクラブ会員。京都・奈良・鎌倉など歴史ある街を中心に取材・撮影を行い、「楽しいだけではなく上質な旅の情報」をメディアにて発信。観光庁が中心となって行っている外国人旅行者の訪日促進活動「ビジット・ジャパン・キャンペーン」の公式サイトにも寄稿している。鎌倉の観光情報は、自身で運営する「鎌倉紀行」で更新。(森川孝郎)
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