子宮・卵巣を全摘出、脳に腫瘍…大病の末に北新地放火殺人事件で兄を亡くした伸子さん

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2024年06月23日 11:10  web女性自身

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「あなたも、しんどいことがあったら連絡してくださいね」



穏やかな口ぶりで、本誌記者に語りかける伸子さん。放火事件で兄を亡くした過去を持つ。「なぜこんな目に」。自らを襲った不条理に苦しんだ。



そんな彼女は、1年前から僧侶となるための修行を始めた。自らもやり場のない悩みや怒りを抱えたからこそ、人々の心に寄り添える。



晴れやかな表情を浮かべるようになるまでの道のりとは──。



奈良県大和高田市にある「ワンネス財団」の会議室で、20代の青年がとつとつと自身の胸のうちを話し始めた。伸子さん(47)はうつむきがちな青年の目を見つめ、彼の話に真剣に耳を傾けた。



「彼は母親がある事件で亡くなり、犯人も死亡。怒りの矛先を失って、荒れた時期があったようです。怒りが高じて自傷することもあれば、犯人の家族に仕返ししようと考えてしまったりと、怒りが収まらない自分自身に苦しんでいるようでした」(伸子さん)



「ワンネス財団」は、社会から孤立しがちな元受刑者や、精神疾患・依存症などで生きづらさを抱えた人の“生き直し”を支援する専門機関だ。



伸子さんは今年2月から月2回ほどのペースでここを訪れ、入所者との対話を続けている。



青年の話をじっくりと聞いてから、伸子さんはこう語りかけた。



「その腹立たしさ、これから一生、抱えていくの? それって、しんどくない? そんな怒り、持ち続けなくてもいいんですよ。もったいなくないですか? あなたの人生、これからなのに」



青年は拍子抜けしたように、きょとんとした顔をした。



「どんな人生を生きるのか。あなたは選べるんです。もちろん、悲しみや憎しみを持ち続けていてもいいですよ。でもね、憎しみを持たない人生だって選べるんです」



伸子さんはさらに続ける。



「私も兄を亡くし、犯人も死亡しました。でも、被害者遺族として怒りや悲しみを持ち続けても兄は帰ってこないんですよ。だから、怒りを持ち続けるのはやめて、“被害者遺族”から抜けたんです」



たしかに伸子さんは、被害者遺族という言葉から連想される暗さとは無縁の人だ。明るい笑顔と相手を包み込む優しいまなざしに、自然と心がほどけていく。



青年は顔を上げた。



「大丈夫ですよ。自分を否定するのはもうやめましょう。あなたはあなたが選んだ生き方を生きればいいんですから。大丈夫ですよ」



伸子さんがくり返す「大丈夫」の声に、青年の表情はすっかり柔らかくなっていた。



「今日は話してよかったです。ここの人たちにも言えずにいたことまで話せて、なんだかとてもスッキリしました。ありがとうございました。またお願いします」



同じ経験を持つ者同士だからこそ通じ合う思いもある。



2年半前の12月17日、大阪・北新地の心療内科クリニック放火事件はいまも記憶に新しい。



伸子さんは、現場となったクリニックの院長・西澤弘太郎さん(享年49)の妹なのだ。





■3年連続の大病で手術。4年目に“事件”が



スタッフ、患者合わせて26人もの犠牲者を出し、火をつけた谷本盛雄容疑者(当時61)も死亡するという凄惨な事件をきっかけに、普通の主婦だった伸子さんの生き方は急展開していった。



「話を聞いて、人の心に寄り添いたい」。そんな強い思いで、現在「ワンネス財団」での対話のほかにも、心のモヤモヤを話せる「ナチュラルカフェ」(西明石)を開いたり、癒しの音浴をしてもらうイベントを企画するなど、多忙な日々を送っている。



昨年6月からは、心に寄り添うための学びとして、真言宗の修行を始めた。12月に得度。現在は僧侶資格を取るため、さらなる修行を重ねている。



「最初のきっかけは、ネットのニュースに書き込まれるコメントでした。兄の事件のニュースに『ここのクリックの患者でした』という方がかなりの数、書き込みをされていたんです。『すごくいい先生でした』『先生のおかげで生きてこられた』など、兄はすごく患者さんに頼られ、慕われていたんですね。



兄があれほど毎日忙しくしていたのは、患者さんのために一生懸命だったんだと思うと、涙があふれて止まりませんでした」



それから2年半。苦悩を乗り越えるまでの歩みを追った。



父親は内科医、母親は歯科医という医者家族に生まれた伸子さん。弘太郎さんは4歳違いの兄だった。



「子どものころの兄はずっと勉強していた印象があります。学校が重なったのは小学校だけ。勉強を教えてもらった記憶もないし。



あ、でも、兄がプロレスの技を教わってきて、私に技をかけたことがありましたね。『ちょっとかけさせて』『あいたたた』って(笑)」



歴史が好きで、中学生のころからお城や史跡、古墳などを巡り、釣りも好きだった弘太郎さんだが、いつも忙しそうだった。



自身の心療内科クリニックでは、生きづらさを抱えた人たちや職場復帰を目指す人たちに寄り添い、復職をサポート。父親の医院の近くでも新たにリワークプログラムを始め、産業医もしていたという。



事件を起こした谷本容疑者も、クリニックに通う患者の一人だった。容疑者死亡で不起訴となり、事件につながる動機や原因を知るすべは永久に失われてしまったが、いちばん無念だったのは、患者のためにと精いっぱい尽くしてきた弘太郎さん自身だったろう。



「ずっと多忙で、お正月に家族で集まっても、兄はいつも父とふたりで仕事の話ばかりしていました」



それでも、高校生だった伸子さんが、進学で家を離れた弘太郎さんに書いた手紙が15?16通、遺品のなかから出てきたときは驚いた。



「私の手紙を大事に持っていてくれたなんて。兄はやっぱり優しいと思いました。私が病気をして、入院したときもお見舞いに来てくれました。長居はせず、さっさと帰ってしまうけれど、いつかはゆっくり思い出話ができるんじゃないかなって思っていたんです」



40代に入るころ、伸子さんは続けざまに入院、手術を受けている。



「子宮筋腫で子宮の全摘手術を受け、翌年には卵巣を全摘。さらに脳にできた腫瘍の手術と、3年連続で入院が続きました。4年目は何も病気が出なくてよかったなと安心していた矢先の年末に、あの放火事件が起きたんです」





■ニュースのコメント欄に、兄の患者の書き込みが



中学生だった長男の懇談会に備えて、学校近くのレストランでランチを注文したときだった。スマホのニュースに「西梅田の心療内科で火災発生」と出た。



まさかと思って開いたニュースの写真には、兄のクリニックの窓が写っている。慌てて店を飛び出し、タクシーで現場に向かった。



「パニックで、兄のところへ行きたいと、それだけしか頭にありませんでした」



渋滞がひどく、最後は徒歩でクリニックに向かったが、すでに規制線が張られ、ものすごい数の消防車が現場を取り囲んでいた。



義姉(弘太郎さんの妻)も駆けつけていたが、被害者は全員、複数の病院に搬送された後だった。



「結局、家で待つしかなくて。夜の10時でした。母から電話で、『お兄ちゃん、亡くなりました』と告げられました」



夫と両親、義姉と伸子さんの5人で警察署に向かった。



「車の中では誰も話をせず、泣くとか、取り乱すとかもなかったですね。あまりにもショックが大きく、泣くことすらできなかったと思います」



遺体は別の警察署の駐車場の奥に置かれていたという。



「袋に入った兄と対面しました。父は涙を浮かべ『よう頑張ったな』と、兄に声をかけていました」



死因は一酸化炭素中毒だった。



「やけどもなくて、顔も眠っているようにきれいな状態でした。一瞬で気を失って亡くなったんだと思います。痛みに弱かった兄が、痛い思いをせずに済んだのはよかったなと思いました」



葬儀の日も警察や報道関係者が家の周囲を取り囲み、葬儀らしい厳かな気持ちにはなれなかった。



ネットニュースのコメント欄に寄せられた兄への感謝や兄の死を悼む投稿を読んだのは、そのころだ。



頼りにしていた院長が突然いなくなって、戸惑い、途方に暮れる患者の声もたくさん目に留まった。



「なんとかしてあげたい。力になってあげたいという気持ちが自然と湧いてきました。でも、どうすればこの患者さんたちと連絡が取れるのかすら、当時はわかりませんでした」



【後編】「覚醒剤で6回服役」の反社会的勢力の元幹部にも寄り添う 北新地放火殺人事件遺族・伸子さんへ続く

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