■「読者」を「共振」させる漫画家
楳図かずお先生のマンガを読むと「震える」。
「ギャーーーーー!!」というオノマトペが震えている有名な手法もさることながら、まずそれは希望に打ち震えるということ。読者をこれほど「共振」させた漫画家さんというのは珍しい気がする。それはいまのSNS社会が半ば強制(?)する「いいね」の微弱な「共感」ではない。もっと崇高で、かけがえのない、魂の震えだ。読者を震わせ、奮い立たせ、哲学者ジャック・デリダの言う「メシア的なもの」のように、どんな絶望的な終末状況でも何かの「到来」「はじまり」を予感させたのが、『漂流教室』『わたしは真悟』『14歳』といった文明論・進化論的パースペクティヴをもつSF長編作だった。
立川談志がダ・ヴィンチと手塚治虫を引き合いに出して天才を「質と量」と定義したことを踏まえると、楳図先生は紛れもなく天才だった。それゆえ「質と量」を完備した膨大な作品群から何を切りだすかの時点で論者のスタンスを問われるのだが、おそらく楳図先生の追悼文の大半が上記三つのSF長編を中心にするのは間違いない。ぼく自身いちばん好きな作品はウメズ版『火の鳥 未来篇』とも言える『14歳』で、この最後にして最大の長編に関する論考を『日本の大衆文化はなぜ「終末」を描くのか』(Pヴァイン)に発表したばかりだ(発売してわずか5日後に訃報が流れて驚いた)。とはいえ、まずもって楳図かずお先生は読者を絶望のどん底に叩き落す恐怖漫画家だった。そう、「震える」には恐怖の側面もある。
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グリム童話「ヘンゼルとグレーテル」をベースにした1955年のデビュー作『森の兄妹』は、とてもかわいらしい作品だ。とはいえグリム童話の残酷を知悉していた巨匠は、すでに恐怖要素を散りばめている。飢饉におそわれた一家が子供を森に置き去りにし、悪い魔女は沸騰したお湯の中に叩き込まれて煮殺される。かわいらしいお菓子の家も出てくるが、約30年後の『神の左手悪魔の右手』でお菓子の家は、女子大生に嘔吐物まみれのケーキを腹がはち切れるほど食わせるサイコキラーの潜伏する魔窟に変貌していることを思うと、何かもうデビュー作からして既に怖い。
大槻ケンヂさんと今年ゲンロンカフェで対談したときに印象的だったのは、子供のころ読んだ『洗礼』の脳移植シーンが怖すぎて、二度と見れないように本をホッキチスで綴じて禁書にした(!)というエピソードだった。恐怖漫画家にとって最高の勲章だろう。
ぼくなどは『猫面』という作品に恐怖で震えた。猫の顔をした暴君が主人公の時代劇画で、楳図先生みずから「残酷表現を極めた」と語る拷問シーンの過激さは、石井輝男の「異常性愛路線」でさえソフトコアに見えるというか、これに太刀打ちできるマンガは平田弘史『血だるま剣法』くらいでないかと思ったものだ。
「震える」には爆笑しすぎて痙攣するという面もある。いたるところに糞をまき散らす『まことちゃん』の肛門期固着な下品さには脱帽ならぬ脱糞である。「イアラ――――!」と代表作を叫びながら特大のB・G(ビチグソ)をひり出す楳図さん本人のご出演は、もはやGGアリン級のハードコア・パンクのスピリットを感じた。小学生のころに『浦安鉄筋家族』が流行って学校で禁書扱いになった1988年生まれの僕などは、「ああ『まことちゃん』がルーツなんだ」と学びもあった。
……などと一見故人を偲ぶにはふさわしくない恐怖・残酷・お下品面をやたら強調したのには理由がある。偉大な作家であればあるほど、死後、「希望」の側面のみが強調されて、作家としての振れ幅が見えづらくなってしまうことがあるからだ。手塚治虫は「黒手塚」を抱えこみながらも人間賛歌を謳ったからこそ偉大だったのだ。あるいは野坂昭如が『火垂るの墓』の反戦作家であることが強調されるほど、『エロトピア』に代表される艶笑譚・好色文学の達人だったエロ黒眼鏡の面は見えづらくなっていく。シェイクスピアが四代悲劇の作家であることが強調されるほど、強姦魔を肉パイにしてその親に無瑠やり食わせる残酷演劇『タイタス・アンドロニカス』の作家でもあったことは秘匿されていく。コンプライアンスはときに善意的硬化をもたらし、両極の矛盾に苛まれてこそ人間存在の力動が宿るのを忘れ、読むものを只では置かない「共振」ではなく、安全圏の「共感」で自足させるきらいがある。
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こうした暗黒面をほじくり返すのは偉大な作家を貶めたいからではない。むしろ「希望」に至る過程では、こうしたデカダンスはマナーというか、通過儀礼として必ず現れるのであり、むしろ人間精神の暗部に降りていく姿勢は誠実さだとさえ思う。錬金術において黄金が精製される前に「黒の過程(ニグレド)」を経るように、そこを無視してキラキラした部分だけ見せるのは修業しないで悟りを得た坊さんのように不誠実だろう。その意味で、楳図先生は『猫面』の残虐、『まことちゃん』の下劣など人間の悪魔的サイドに下降し、ホラーからギャグまで人間のどうしようもなさを描き切ったからこそ、それでもなお打ち出された『漂流教室』『わたしは真悟』『14歳』の希望はホンモノだと思うのだ。
とりわけ『14歳』を読み返して驚いたのは、「世界の終わり」を突き付けられて登場人物たちが皆一様に号泣するさまだった。昨今の(ポスト)アポカリプスもののドライな現状認識のなかで、これは珍しいことだと思う。ゴキブリも号泣するし、大人の総理大臣も国際会議で号泣するし、悪魔少女のばらも号泣するし、「もう泣かない」と決意した幼子アメリカ・ヤングでさえ号泣する。しかしなぜこんなに泣くのか? エミール・シオランは『涙と聖者』にこう書いている。
「私たちを聖者に近づけるものは認識ではない、それは私たち自身の最深部に眠っている涙の目覚めである。そのときはじめて、私たちは涙を通して認識に達するのであり、そして人がひとりの人間であったあとでいかにして聖者になりうるかを理解するのである」
ぼくは楳図かずお先生は「聖者」だったように思える。そして「涙の極意を極めた」(シオラン)子どもだったと。子どもほど恐怖し、痙攣するほど笑いこけ、涙するほど希望に満ちあふれた、様々なレベルで「震える」存在はない。音楽評論家サイモン・レイノルズが書いたグラムロック論『Shock and Awe』の軍事的タイトルを、敢えて微妙にずらして「震えと戦(おのの)き」と訳し、楳図先生に捧げたい。サバラ!!
(文=後藤護)
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