連載第24回
サッカー観戦7000試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
なんと現場観戦7000試合を超えるサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。
今回のテーマは、サッカー日本代表の中国とのアウェー戦です。今から20年前の2004年、中国で行なわれたアジアカップで日本は大ブーイングのなか、優勝を収めました。
【20年前の中国旅行で......】
今から20年ほど前だが、中国の東北部を旅したことがある。
サッカーとは直接関係のない旅行だったが、吉林省の長春では中国2部リーグの長春亜泰(現在は超級=1部)を取材したり、延辺朝鮮族自治州の延吉市でも関係者の話を聞いた。政府の取材許可を得ていなかったので記事にすることはできなかったが、サッカー関係者は快く取材に応じてくれた。
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そこで気がついたのは、中国の地方都市では街中でサッカーユニフォーム(レプリカシャツ)を来ている人が非常に多いということだった。地元のクラブや中国代表のシャツが多いのは当然だが、驚いたことに日本代表のシャツを着ている人の割合も高かった。
1990年代にJリーグがスタートし、日本代表の強化が進んでから、アジア各国でも日本のサッカーは高く評価されており、「日本代表が好き」という人も多い。そして、中国もけっしてその例外ではなかったのだ。
意外に感じるかもしれない......。というのは、日本のサッカーファンにとって中国というと「反日ブーイング」の記憶が強いからだ。
【2004年アジアカップでの反日ブーイング】
「反日ブーイング」の記憶とは、2004年に中国で開催されたアジアカップでの一連の出来事のことだ。
この大会、日本は苦戦を強いられた。
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準々決勝のヨルダン戦でのPK戦では、1人目の中村俊輔と2人目の三都主アレサンドロが荒れたピッチに足を取られて失敗。すると、キャプテンの宮本恒靖(現、日本サッカー協会会長)が主審に歩み寄って、ピッチ状態のいい逆サイドへの変更を申し入れたのだ。この変更によって流れが変わり、最後はGK川口能活がスーパーセーブを連発して日本は準決勝進出を決めた。
準決勝のバーレーン戦では40分に遠藤保仁が退場。ひとり少ない日本は後半、一度は2対1とリードを奪ったものの、逆転されてしまった。だが、90分に中澤佑二が起死回生の同点ゴールを決め、延長前半には玉田圭司のゴールで再逆転して勝利を手繰り寄せた。
こうして驚異的な粘りを見せて決勝に進出した日本は、最後に開催国の中国を破って大会連覇を達成した。
しかし、この大会では試合前の君が代演奏時に中国人観客から激しいブーイングを浴びせられ続けた。日本人サポーターに向かって物が投げつけられたこともあったし、決勝戦のあとには日本大使館の車両が取り囲まれ、車体が損傷を受けてしまった。
決勝戦のあと、会場の工人体育場周辺は暴動に近い状態となり、日本人サポーターは競技場から出ることができなかったという(僕は工人体育場バックスタンド内にあるビジネスホテルに泊まっていたので、そんなことは何も知らず、記者会見終了後自室に戻って呑気にビールで祝杯をあげていたのだが......)。
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【反日ブーイングの意味】
ほんの数年前に僕が同国の東北部で見た光景と、アジアカップでの反日ブーイング......。いったい、中国の観客は日本に対してどんな思いを持っているのだろうか?
まず、確認しておかなければならないのは、中国では一般的に日本に対しての反感は強いということだ。
最近の中国の対外政策に対して、日本や米国は「力による一方的な現状変更」だとして批判する。だが、19世紀初めから20世紀前半にかけて中国に対して「力による一方的な現状変更」を行なったのは欧米の列強や日本だった。香港は英国の植民地とされ、上海など沿海部の都市には「租界」が置かれ、外国の勢力下に置かれた。
さらに、日本は1932年に東北部に「満洲国」を作り上げ、さらに1937年には中国と全面戦争に入った。1945年まで続く日中戦争の間に、中国では多くの人々が犠牲となった。
こうした歴史を考えれば、中国人が日本に対して警戒心や反感を持つのは当然のことだろう。
2004年のアジアカップで激しい反日ブーイングが起こったことには、様々な要因が絡んでいる。まず、会場の問題だ。
この大会、日本はグループリーグと準々決勝は重慶。準決勝のバーレーン戦は山東省の済南で戦った。
1937年に日中戦争が始まった当時、中華民国国民政府は中国南部の南京を首都としていた。だが、日本軍が南京を占領すると、国民政府は内陸の重慶に移転して抗戦を続けた。
その重慶に対して日本は激しい空爆を行なったのだ。そして、重慶では数多くの民間人が犠牲になった。
済南では、全面戦争勃発前の1928年に国民政府軍と日本軍が軍事衝突を起こし、ここでも大きな被害が出ていた。つまり、重慶も済南も、中国のなかでも比較的反日感情の強い都市だったのだ(なぜ、中国側が日本の試合会場としてこうした都市を選んだのかは疑問だ)。
さらに、2004年当時は小泉純一郎首相の靖国神社参拝問題や尖閣諸島の領有権を巡って、日中関係が悪化していた時期でもあった。
アジアカップでは、大会を成功させるために企業や学校、軍単位で団体が動員された。スタンドを埋めるためだ。そのため、サッカーにあまり興味がない人たちもスタンドに座っていた。それで、彼らが暇つぶしのために日の丸に対してブーイングを行なったという面もあった。
さらに、「反日ブーイング」には中国政府に対する不満表明という意味もあった。
1989年に起こった民主化運動は弾圧され、人々は政府に対する不満を抱えていた。だが、反政府運動は厳しい弾圧を受ける。そこで、「反日、愛国」を叫ぶデモが行なわれるのだ。それなら、政府は簡単に取り締まることができないからである。アジアカップでの「反日ブーイング」もそれと同じ構図だった。
【FIFA会長にブーイング!?】
開会式ではこんな事件も起きた。
来賓のゼップ・ブラッターFIFA会長(当時)が挨拶に立つと同時に、スタンドからブーイングが起こったのだ。
だが、これはブラッター会長に対するものではなく、その直前に挨拶に立っていた協会幹部に対するブーイングだったのだ。
中国のような権威主義国家ではテレビの生中継は1〜2分ほど遅れて放送されている。"不祥事"が起こった時に即座に中継を中止できるようにするためだ(不祥事とは反政府運動のことだ)。
そして、開会式の時には場内の映像装置にもテレビ中継の映像がそのまま映し出されていた。だから、ブラッターが喋りだした時には、さっきまで演説していた中国の幹部の姿が映っていたのだ。
また、決勝戦の時には実際に反政府的なチャントが聞こえてきた瞬間もあった。だが、場内にはすぐに「ワーッ」という歓声のような音声が大音量で流されてチャントが聞こえないようにされた。政府側も、「反日ブーイング」に反政府的な意味合いがあることは重々承知しており、準備万端だったのだ。
【今回の中国戦は福建省厦門で開催】
あのアジアカップから20年が経過し、11月19日には福建省厦門(アモイ)で試合が行なわれる。
厦門は、かつて日本の勢力が強かった地域であり、戦争中にも大きな被害は受けていない。つまり、重慶や済南に比べれば反日感情は強くない。
しかし、現在の日中関係はかなり悪化しているし、経済の減速や失業者の増加によって中国社会には社会不安が高まっており、最近も、広東省の珠海や江蘇省の無錫で無差別殺傷事件が相次いで起こっている。
20年前には、中国はホームアドバンテージを生かしてアジアカップで決勝まで勝ち進むだけのチーム力があった。2002年にはW杯出場も果たしている。だが、その後、中国サッカーは弱体化。今では9月の試合での7対0というスコアが示すように、日中両国の実力差は拡大している。
そんななかで行なわれる厦門での対決......。はたして、20年前のように「反日ブーイング」のようなことが起こるのかどうかにも注目したい。
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