「最後に自分らしいプレーはなかなかできなかったんですけど、みなさんと楽しくボールを追うことができましたし、いろんな方々に見送っていただき、忘れられない時間を過ごさせていただきました。本当にありがとうござました」
2024年12月15日。自身のプロキャリアを締めくくる引退試合後の記者会見の壇上で、開口一番、清々しい表情の松井大輔はそう言った。
この日、主に元日本代表選手で構成する「JAPAN DREAMS」と、元チームメイトや多彩なゲストで構成する「MATSUI FRIENDS」の両チームでプレーした松井は、トータル7ゴール1アシストを記録。引退試合の主役としては、申し分のない結果を残している。
にもかかわらず、最初に出てきた言葉が「自分らしいプレーはなかなかできなかった」というのだから、やっぱり松井は普通のサッカー選手ではないと思う。
そしてその言葉を聞いた時、自身のキャリアで貫き通したサッカーに対する独自の美学のようなものを、あらためて思い知らされた気がした。
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「稀代のドリブラー」「ファンタジスタ」「予測不能なテクニシャン」──。松井大輔というサッカー選手を表現する時、多くの人がそういった類の言葉で形容する。
実際、松井のプレーはその言葉どおりのスタイルであり、引退試合に参加した選手たちも、口を揃えるように似たような表現で松井の選手像を語っていた。
ただ、個人的には、松井大輔というサッカー選手を絶妙に言い表わした言葉は、やはりル・マン時代に授かったニックネーム『le soleil du Mans(ル・マンの太陽)』ではないかと思っている。
誰が名づけたのかはわからないが、たしか松井が2004年の夏に当時フランスのリーグ・ドゥ(2部)のル・マンに加入し、そのシーズンにリーグ・アン(1部)昇格を決めた頃には、すでにそのニックネームが新聞の見出しに使われていたと記憶する。
【「大道芸人だ!」と怒られようとも...】
当時のチームには、松井よりも重要戦力として活躍していた選手がいた中で、なぜ松井だけにそのようなニックネームがついたのか。最初にそれを知った時は、おそらくクラブ史上初となるリーグ・アン昇格の立役者のひとりになった"プティ・ジャポネ(小さな日本人)"が「太陽」のように輝く存在に見えたのだろう、という程度でしか考えていなかった。
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その意味を、自分なりに解釈するようになったのは、リーグ・アンでプレーする松井の姿を頻繁に見るようになってからのことだ。
屈強な体の選手たちが壮絶なフィジカルバトルを繰り広げる当時のフランスリーグで、ほかの選手が絶対にしないような華麗な技を試合中に披露する松井のプレーは、極めて異質だった。しかし、松井が時折ファンタジックなテクニックを見せると、スタジアムはゴールが決まった時のようにドッと沸き、スタンドのファンは歓喜した。
「こっち(フランス)の人たちは、僕がそういった魅せるプレーをすると、すごく喜んでくれるんです」
当時、松井本人からそんな話をよく聞いたが、実際にスタジアムでそういったシーンに何度も出くわしたことがある。
当然ながら、チームは常に勝利だけを目指して試合に挑み、ファンもチームが勝つことを願ってスタジアムに足を運ぶ。松井もアタッカーとして、ゴールやアシストでチームの勝利に貢献したいと思ってプレーすることに変わりはない。
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しかし、たとえチームが勝ったとしても、自分らしいプレーができなければ満足できないのが、松井という選手でもあった。
だから、時にフレデリック・アンツ監督から「ダイ(松井)はサッカー選手じゃない。大道芸人だ!」とお叱りを受けても、試合を見に来てくれるファンを喜ばせるプレーを松井が止めることはなかった。
もっと大袈裟に言えば、ゴールやアシストといった目に見える結果よりも、自分のプレーでファンを楽しませることができたかどうかが、自己評価の最重要事項のようにも見受けられた。
【雲の隙間から差し込む光のように】
ル・マンの人たちは、今日もそんな松井のプレーが見られるのではないかと、心のどこかで期待しながらスタジアムに足を運ぶ。そして実際に、なかなか拝めないようなアクロバティックなプレーや華麗なテクニックを目撃した時に感激し、仮にチームが負けたとしても、見に来てよかったと感じながらスタジアムをあとにする。
どこかギスギスした勝利至上主義のプロの試合のなかで、松井の魅せるプレーは、どんよりした雲の隙間から差し込む太陽の光のように感じられるのかもしれない。スタジアムでその太陽の光を浴びれば、幸せな気持ちになって、明るい希望を胸に翌朝を迎えられる。
小さな本拠地スタッド・レオン・ボレー(当時)で松井のプレーを楽しんでいるル・マンの人たちを見るうちに、あくまでも自分なりの解釈ではあるが、なぜ松井が「ル・マンの太陽」と呼ばれるようになったのかがわかった気がした。
もちろん、23年という長いプロキャリアを振り返れば、理想と現実のギャップに悩まされたこともあっただろう。あの華やかなプレースタイルとは裏腹に、もがき苦しみ、悩む日々のほうが圧倒的に長かったという現実もある。
しかし、子どもの頃から追い求めていた自分らしいプレースタイルを、最後の最後まで貫き通すことはできた。理想を失うことなく、自分を見に来てくれるファンを喜ばせるためのプレーを磨くために、たゆまぬ努力を続けて苦しい時期を乗り越えることもできた。
この日、『松井大輔引退試合 -Le dernier dribble(最後のドリブル)-』を見に来た1万人を超えるファンも、松井が奇想天外なテクニックを見せてくれることを期待しながら、ニッパツ三ツ沢球技場に集まったに違いない。
それをわかっている松井は、だからこそ最初に「自分らしいプレーはなかなかできなかった」と口にしたのだと思う。
日本サッカー界でも異質と言える稀代のエンターテイナーは、最後まで自分の美学を貫き、みんなの「太陽」であり続けようとしてくれた。そのことに、サッカーファンのひとりとして感謝の気持ちでいっぱいだ。
スタジアムに笑顔と幸福感が溢れていた松井大輔の引退試合は、23年間のキャリアを集約するように、大団円で幕を閉じた。