雲仙・普賢岳の地質構造の研究者として目立たずに研究に没頭してもよかったはずだが、1990年に始まった噴火災害に直面した太田一也先生は、そうしなかった。「災害科学研究通信」(93年9月)で「災害科学は、社会に、人に直接役に立つものでなければ存在価値はない」と明言している。
住民の居住を制限する警戒区域・避難勧告地域の範囲を見直す際、決定権者の長崎県島原市、旧深江町(現・南島原市深江町)の両首長は、先生の知見を最大限尊重した。人命第一の規制と住民生活とのバランスに苦しむ中、一定のある覚悟を持っていることを、お互い分かっていた。雲仙災害での科学者と地元で責任を負う首長がいかに誠実だったか。今の国政の迷走を見て強く思う。
43人が犠牲になった大火砕流惨事が起きた91年6月3日。毎日新聞も社員3人が死亡した。長崎支局の新人記者だった私はその日、前線本部での取材をたまたま交代していて生き延びた。
92年に島原市に常駐し、災害取材に専従したが、当時は山頂に出てくる溶岩の量が減ってきていた。九大島原地震火山観測所が開いた住民向け学習会で「無理な質問かもしれませんが、いつごろ噴火は終わるんでしょうか」と質問が出た。
火山と人間では時間的スケールが違う。答えられなくても、誰も文句は言わない。だが、先生は「無責任かもしれませんが、科学的ではないかもしれませんが」とためらいつつも、意を決したように「あと2、3カ月後ではないかと思います」と語った。市民の真剣なまなざしを前に、問いをスルーしなかった。
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その後、溶岩の量は急激に復活し、結果的に発言の通りにはならなかった。批判する科学者もいたが、市民には「先生は隠しごとをしない」という信頼感が根付いたと思う。
93年は大雨が続き、過去最大級の土石流被害が起きた。火砕流も頻発し、1人が死亡した。災害は果てしなく続くように感じられた。26歳の私は、心身とも疲弊した。「もう、何を書いていいかもわかりません」と先生に吐露すると「神戸(かんべ)君、今こそ記事を書くんだ。『一刻も早く防災工事を』って」と、尻をたたかれた。重い責任を背負っていた先生は、私などよりずっと苦しかったはずなのに……。
95年まで、私は島原で暮らした。私も含めた住民は、島原に先生がいる安心感を支えに長い災害に耐えた。心から感謝している。(元毎日新聞記者、RKB毎日放送解説委員長・神戸金史)
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