ドジャース挑戦から30年。1995年の野茂英雄がメジャーで見つけた3つの「流儀」

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2025年02月13日 09:20  週プレNEWS

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日米を熱狂させた野茂英雄


日米を熱狂させた"トルネード旋風"から30年。当時中学生だった1982年生まれのノンフィクション作家、前川仁之氏が"日本人メジャーリーガーのパイオニア"の偉業を振り返る。

*野茂英雄さんの発言はすべて『僕のトルネード戦記』野茂英雄(集英社文庫)から引用

*  *  *

■あの頃の野茂とぼくら

1994年のプロ野球は大盛り上がりだった。登録名を変えたばかりのイチローがシーズン最多安打記録を樹立し、セ・リーグでは史上初の最終戦同率首位対決「10・8決戦」で巨人が中日を下し、第2次長嶋茂雄政権初優勝!

当時巨人ファンの中1だったぼくにとって、人生で一番プロ野球に熱中した年だ。だが、子供心に寂しさも感じていた。ルーキーイヤーから4年連続最多勝、最多奪三振を獲得し続けていたパ・リーグ最強投手、近鉄の野茂英雄が故障でシーズン後半を棒に振ったのだ。

ケガが治ればまた雄姿を見せてくれるはず。ところが契約更改の交渉が難航し、年が明けた1995年1月9日、野茂は任意引退を宣言。メジャーリーグを目指すという。

子供はいつだってスター選手の味方だ。野茂を信じているし、応援している。だけど大リーグで活躍できるのか?

少し前に「シアトル・マリナーズ、マック鈴木。彼の夢はうんたらかんたら」というCMがよく流れ、「あのでっかい兄ちゃんが今一番大リーグに近い日本人で、それでも2軍らしい」なんて友達と話していた。

当時の平均的な中坊の認識はそんなもので、メジャーの壁は、すでに崩壊していたベルリンの壁よりも、まだできていないトランプの壁よりも分厚かったのだ。

■背番号16の衝撃

海を渡った野茂は、ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を交わす。それが今からちょうど30年前の2月13日のことだった。

ドジャースに決めたのは、会長のピーター・オマリーに「本当にキミが欲しいんだ」と口説かれたからだそうだ。年俸は近鉄のルーキーイヤーに次ぐ低さだったが、金よりも、投球という自分の表現を愛し、わかってくれる人たちのところで存分にプレーしたい。冒険できる男、野茂英雄の真骨頂。

この時点で、「金のために交渉でごねてやがる」みたいな悪口を言っていた一部の、鴻鵠(こうこく)の志を知らぬ燕雀(えんじゃく)的オトナたちに十分、目にもの見せてやったカタチになる。

だが、野茂が真にすごいものを見せてくれるのはここからだ! 春季キャンプで50日間たっぷりとトレーニングを積んだ野茂は4月の末に念願のメジャー契約を交わす。

そして5月2日、敵地で行なわれたサンフランシスコ・ジャイアンツ戦でメジャー初登板に臨んだ。1番打者ダレン・ルイスは2−2からのフォークを見逃し三振。野茂は奪三振でメジャーリーガーのキャリアを踏み出したのだ。

この日は5回を投げて被安打1、奪三振7、自責点0の好発進も、勝敗はつかず。

野茂英雄の個性を合衆国民にはっきりと印象づけたのが、4度目の先発となった5月17日のパイレーツ戦。7回を投げて14個の三振を奪い、本拠地ドジャースタジアムの観客からスタンディングオベーションを受ける。

そして7度目の登板で念願の初勝利を収めると、快進撃をスタート。日本人メジャーリーガー初となるオールスター出場も果たし、地区優勝にも貢献した。

結局、13勝6敗、防御率2・54(ナ・リーグ2位)、奪三振数はリーグトップの236でタイトルを獲得。新人王にも選ばれた。完封3はリーグトップタイ。ついでに暴投19は両リーグ通じてトップ(2位に4個差!)と、トルネードらしさ全開のルーキーイヤーとなった。

■野茂が驚いた「メジャー三大発見」

輝かしいキャリアの扉を開けた初登板の感激を、野茂はこう振り返っている。

「5月2日という日を僕は一生忘れないでしょう。投げられることの喜びを心から感じながら、ボールをピアザのミット目がけて投げ込んだ日を」

そう、喜びであり、楽しみなのだ! 野茂がメジャーで取り戻したものは。

あの頃ぼくらは、なんだかんだ"評価"目線で応援していた。野茂本人が楽しんでるかどうかまで気が回らなかった。見た感じはいつもクールでアンニュイだしさ。

今ならわかる! 当人が楽しめるのがどれほど大事か、が。というわけでここからは、野茂が驚いた「メジャーリーグ三大発見」を厳選してお届けしよう!

【発見1】メジャーリーガーは練習する

そんなの当たり前田のキャプチュード、と思うなかれ。当時の日本では「大リーガーは全然練習しない」という認識が持たれていた(らしい)。

ところが、春季キャンプにメジャーの選手たちが合流してくると、一流選手でも練習しまくる。野茂は驚いた。

「ただ日本と大きく違うのは、日本ではやらされる練習が中心なのに対して、こちらはそれぞれのトレーニングを各自が自覚を持ってやっている。自己管理が徹底しているということ」と語る。

【発見2】メジャーリーグはコミュニケーションだ

野茂と故仰木彬(おおぎ・あきら)監督との師弟愛はファンの記憶するところ。メジャーでも野茂は、監督に恵まれた。ドジャースを率いて20年目の名将、故トミー・ラソーダ監督だ。ラルフ・ブライアントを放出した、日本球界の恩人でもある。

「『選手は全員、私の息子だ』と言ってはばからない彼は、ベンチやロッカーでは絶えず息子たちに話しかけ、悩みがあるときには聞き、自宅に招待して食事を共にすることさえあります」

「彼が一番大切にしていることは、選手とコミュニケーションを取ることなのです」

そしてメジャーでは監督と選手、選手同士、選手とドクター、球団とファンなど、あらゆる関係で対等のコミュニケーションが大切にされることを学んだ。個性豊かな仲間との交流を通じ、野茂もコミュ力を開花させてゆく。

その過程で野茂は、「なんや?」という大阪弁をチームに浸透させたり、尻に手を当て「ヒア・ウオーター(ここ、水)」で体調を伝えたり(意味はお察しあれ)、愛されキャラへと覚醒。マウンドでは直球とフォークだけで勝負するが、コミュニケーションの球種は豊富だった。

【発見3】メジャーリーグの芝は青かった

日本プロ野球の球場は今も人工芝が多数派だが、メジャーではほとんどが天然芝。野茂にはこれがたまらなく魅力的で、事あるごとに天然芝愛を語っていた。

「この天然芝こそが、アメリカのベースボールを日本の野球よりも、ずっとアグレッシブに、そしてエキサイティングにしている要因ではないかと、僕は思っているんです」

天然芝は弾力性に富む。

「選手はダイビングも含めて思い切ったプレーができる。ケガの心配がないから、ボールに向かって一直線に突っ込んでいくことができるんです」

メジャーで見つけた「とっておきの気晴らし法」も芝生がらみだ。

「それは、球場の芝生の上にゴロンと横になること。原っぱで野球をやってた子供の頃の気分に戻れるというか、とにかく気持ちがいい」

「まぁ、言ってみれば、この童心に戻るということも、僕にとっては大切な調整法になるのかもしれません」

27歳の野茂のこの言葉は、不惑を過ぎたぼくらへの時限式アドバイスだ。トルネード投法はまねできなくても、草の上に寝転ぶくらいは河川敷や土手にでも行けばまねできる!

童心と初心を取り戻し、自ら楽しみながらついでに人を楽しませる境地へと歩みゆかん。ぼくらはみんな野茂チルドレンなのだ。

野茂さん、これからも、ありがとう!

文/前川仁之 写真/時事通信社

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