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追悼 吉田義男〜生前語っていた知られざる過去(前編)
<よっさん 逝く>
自宅で購読しているスポーツ紙の大見出しが、涙を流しているように見えた。
紙面をめくると、表と裏の両一面から五面にわたり、「よっさん」こと吉田義男に関する記事で埋め尽くされていた。その後、ネットなどで目にした記事も含め、かつての番記者たちが思いを込めた追悼原稿には、吉田の人間味あふれるキャラクターが温かく伝わってきた。
野球を愛し、阪神を愛し、人を愛し----。
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【京の香りが漂う野球人】
「牛若丸」と評された17年の現役生活。阪神で3度監督を務め、1985年にはチームを球団初の日本一へと導いた。また柔らかな語り口のなかに、本質を射抜く的確な解説でも多くの人を楽しませた。
新聞記者たちほどの濃密な触れ合いはなかったが、私もつたないライター人生のなかで、3度、個別取材の機会を得た。吉田にとっては日々の取材のひとつに過ぎなかったが、どの時も初対面のようにあいさつを交わしながら話を始めた。
大監督然とした雰囲気は微塵もなく、一つひとつの問いに丁寧に答えながら、合間にはこちらがホッとするような「よう調べてはりますな」「そんなこともありましたな。おかげで思い出しました」といったやさしい言葉をかけてくれた。
同じ関西でも、大阪とは異なる"はんなり"とした柔らかさに、時にはつかみどころもなさも。そこに強烈な負けん気を交えることもあった。その語り口からも、また着物を羽織れば商売人の風情を思わせる佇まいからも、京の香りが漂う野球人だった。
吉田のルーツである京都での少年時代について話を聞いたのは、3度目の取材の時だった。
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一昨年の11月末。阪神がオリックスとの"関西ダービー"を制し、38年ぶりの日本一に輝いてから3週間余り、阪神のOB総会が行なわれる日だった。その開場前、ホテルの喫茶室で話を聞いた。
周囲はOBたちの笑顔が溢れていた。阪神が日本一になったタイミングで、吉田の半生を振り返る取材。なんとも贅沢な機会だろうと思いながら、当時すでに90歳になっていた吉田の朗らかに語る回想に耳を傾けた。
【幼少期の記憶は戦争のことばかり】
吉田は1933年(昭和8年)、京都市中京区中保町に二男三女の4番目の次男として生を受けた。父はもともと丹波の農家の生まれで広大な土地を持っていたが、大火事に遭い、慣れない商売を始めることになった。吉田が生まれた頃には、薪や炭の原料となる木材を採取する薪炭業で生計を立てていたという。
物心がついた頃、日本は戦火にあった。幼少期の記憶は、戦争にまつわるものばかりだったという。
「食糧難でいつもお腹を空かせていたことや、疎開先でのこと。子どもの頃の記憶といえば、ほとんどが戦争に関するものしかありませんわ」
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そんな時代に、吉田は野球と出会った。
「棒切れをバット代わりにして、布切れを丸めたボールを打ってね。北野天満宮の広場で、友だちと三角ベースをやったのをうっすら覚えてますわ」
学校の運動会では、障害物競争が得意だったという。そんな少年が、いよいよ野球に夢中になっていくのは、終戦翌年の1946年(昭和21年)。京都二商に入学してからだった。
二商は、吉田の家の目の前にあった。毎朝8時過ぎに家を出て、日が落ちてしばらくしてから帰宅する生活。しかしそんな息子に対し、父はよく不機嫌な声を上げたという。
「何をしとるんや、家を手伝わんか!」
終戦直後、7人家族の生活。まして、父は勝負事にも野球にもまったく無関心。兄は工業学校の建築科に進み、自分は商業高校。父は、自分に商売を継がせようと思っていたのだろう。それを「毎日、毎日、野球遊びばかりしよって......」というわけだ。
野球をやめさせられるかもしれない。そんな危機を救ったのは母だった。
「本人がやりたいことだから」
母はそう言い、父を説得してくれた。当時は旧制中学最後の時代で、京都の野球は強かったという。
「鳥羽二中に一商、そこへ二商も強くなって、平安は僕らの頃からでしたな」
【京都二商在学中に3度甲子園出場も...】
入学する春、翌春、そして夏。二商は吉田の在学中に3回、甲子園出場を果たした。しかし1度目は入学前、2度目となるセンバツ大会はチームに同行したものの、試合はスタンドから観戦。そして3度目は、体調不良で野球から離れていた時期だった。
2度目となるセンバツ大会で決勝まで進んだ二商の相手は、吉田の家からほど近い場所にあった京都一商。甲子園唯一の京都勢同士の決勝戦となった。
「あの頃はどこも生徒数が多くて、二商の生徒も学校に収まりきらず、一商の校舎を借りて授業していました。そんな近所同士の一商と二商が甲子園の決勝で戦ったんですから......あとになって思えばすごいことでしたな」
試合は延長11回、1対0のサヨナラで一商が勝利。二商は日本一にあと一歩届かなかった。
「決勝の記憶も、大会の記憶も、私のなかにはほとんど残ってないんですよ」
吉田がまず思い出すのが、野球以外のことだった。
「食糧難の時代で、宿舎に泊まるには米持参が条件でした。だから補欠の私たちもリュックに米や芋を詰めて、京都から電車に乗り、大阪の梅田に出て、堂島浜の宿まで歩きました。焼け野原の跡地には闇市が広がり、人でごった返していました。舗装されていない狭い道を、馬車や牛車にぶつかりながら歩きました」
終戦から3年、吉田の記憶に残る1948年春の風景だった。
そしてチームが夏の甲子園を目指すなか、思いもよらぬ出来事が吉田を襲うのだった。
つづく>>