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追悼 吉田義男〜生前語っていた知られざる過去(後編)
前編:吉田義男の知られざる幼少期の思い出>>
チームが準優勝したセンバツ大会が終わり、野球への思いはさらに強くなった。しかし、栄養状態が悪いなかでの連日の練習に体が悲鳴を上げ、ついには血尿が出てドクターストップがかかった。練習ができなくなり、吉田はいったん野球部を離れることになった。
その間、草野球をして野球への思いをごまかしていたが、完全にできなくなってしまうのではないかという不安もあった。
【転機となった山城高校への転入】
しかし運命は、予期せぬ方向へと進んでいった。1年余りが過ぎた頃、戦後の学制改革により旧制の京都二商が廃校。5年生(旧制の3年10月)の時点で府立山城高校(旧・京都第三中)へ転入することになったのだ。これが転機となった。
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転入後、野球部から勧誘を受けたものの、すぐにグラウンドへ戻ることはできなかった。体調は回復していたが、その間に父と母を相次いで失い、野球どころではなかった。一時は高校を中退し、働くことも考えたという。
そんな窮地を救ってくれたのが兄だった。兄は自ら高校を辞め、家業を継ぐことで「おまえは野球をやれ」と吉田の背中を押してくれた。
意を決しグラウンドへ戻ったのは、山城高校が夏の京都予選に挑む直前だった。ここから野球に全身全霊を捧げる高校生活が始まり、「山城に吉田あり」と評されるほどの活躍を見せるようになった。
山城での3年間のなかで、吉田が大きく影響を受けた人物との出会いもあった。当時の監督である後栄治(うしろ・えいじ)は、京都師範時代に春夏甲子園出場経験のある情熱家で、まっすぐな性格の持ち主だった。多くの生徒に慕われた監督から、吉田も多くのことを学んだ。
「本当に思い出深い先生で、多くのことを教えていただきました。特に『高校で野球部に入った以上、思い出をつくれ』という言葉が印象に残っています。野球部で一番の思い出になるのは甲子園に出場し、仲間とプレーすることだ。そのために何をすべきかを考え、ほかの学校よりも長く練習を重ねた。その積み重ねが甲子園につながるのだと。みんな先生の言葉を信じて、一生懸命練習しました」
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その思いが実ったのが1950年(昭和25年)、吉田が2年生の夏だ。山城高校は初の甲子園出場を果たした。甲子園では初日に敗退し、早々に甲子園をあとにしたが、かけがえのない思い出となった。
「入場式のあと、2試合目で北海に負けました。でも、スタンドから見ていた二商時代とは違い、今度はグラウンドに立ってプレーできました。すべてが思い出です。戦後間もない時期で、銀傘もない8月の甲子園のスタンドは真っ白でした。
フライが上がると遠近感がつかめず、ファウルフライのテリトリーも広くて難しかった。いろいろ戸惑いながら、あっという間に試合が終わりました。私にとっての高校時代の思い出は、戦後の雑踏のなかを歩いた二商時代と、真夏の真っ白なスタンドに囲まれてプレーした山城時代。記憶はこの2つですね」
3年夏は京都大会決勝で平安に敗れ、高校野球生活は終わった。
【大学を中退し阪神に入団】
高校卒業後は立命館大へ進学するも、1年余りで中退し、阪神タイガースと契約することになった。
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「まさか、自分がプロになるとは思ってもみませんでした。私のあと、大学を中退してプロへ行く選手が続いたので、私が前例だったのかどうかわかりませんが、高校卒業からわずか1年ちょっとで、後先生のもとで目指した甲子園を本拠地にするタイガースで野球をすることになるなんて。本当に人生はわからないものですね」
それからも甲子園と深く関わりがつづく野球人生となった。
昨年秋、高校野球の各地の戦いを見ていた時、ふと吉田のことを思い出した。山城高校が秋の京都大会でベスト4に進み、近畿の21世紀枠の候補に選出されたのだ。64年ぶりの甲子園出場の期待が高まったが、1月24日の選考会で21世紀枠に選ばれたのは壱岐(長崎)と横浜清陵(神奈川)で、山城は補欠校にとどまり、甲子園への道は閉ざされた。
かつて吉田はこう語っていた。
「山城は私たちのあと、3回甲子園に出ましたが、すべて初戦敗退なんです。生きているうちにもう一度......。そこで勝って校歌を歌えたら、言うことありませんわ」
そんな吉田の願いが叶うことはなかった。選考会の頃、吉田はすでに病床に伏しており、それから10日後の2月3日の早朝、静かに息を引きとった。
3度目の取材の日、吉田は青春時代を振り返りながら、こんな夢を口にしていた。
「高校時代、ピッチャーをやりたいという思いがずっとありました。子ども頃から憧れていましたが、いつも『小さいから無理だ。内野をやれ』と言われて、結局ショートを守ることになりました。でも夢としては、ピッチャーをやりたかったんです」
高校2年の夏に甲子園に出場し、「山城の吉田」として好守の遊撃手として評価されたが、その頃もマウンドへの憧れがあったという。また、楽しそうにこんな話もしてくれた。
「一度だけ練習試合か大会で、リリーフ登板したことがありました。でも、いざマウンドに立つとフォアボールばかりで、全然ダメでした。そこから二度とお呼びがかからず、即失格でしたわ(笑)」
その後、1975年に阪神の監督に就任した際、背番号1を選んだのは、MLBの名将、ビリー・マーチンを意識したものだった。しかしあの日の笑顔を思い出すと、そこには青春時代の憧れも込められていたのかもしれない。
あまり語られることのなかった高校時代の吉田義男。貴重な話を聞かせていただいた。
合掌。