歴史ファンタジー小説『冥界転生』 最強の陰陽師の血を引く女子高生・明智凛。彼女の顔に現れた不思議なあざの謎が、やがて日本の政界を揺るがす大事件へと発展。内閣支持率が史上最低を記録する中、総理大臣の体を乗っ取った平清盛が独裁への道を突き進み、毎回から歴史上の人物を次々と呼び寄せていく――。
【画像】この“不思議なあざ”は…!歴史ファンタジー小説『冥界転生』書影 17万部突破で映画化もされた小説『もしも徳川家康が総理大臣になったら』などで知られる著者・眞邊明人氏が放つ、歴史ファンタジー小説『冥界転生』の試し読みを3回にわたって届ける。
【第1回本文】
夜は冥(くら)い。
互いの輪郭すら見失う暗がりは、来たる不穏の色を煮詰めたようだ。
山中。その夜の暗さに木陰の漆黒まで重なる人里離れた獣道の半ばに、二人の人影があった。一人は男で、もう一人は少女である。男は緑色の狩衣(かりぎぬ)を纏い、少女は旅装で手荷物を抱えている。二人の表情は、この夜のように冥かった。
別れの際である。
「……秀次様には、申し訳ないことをした」
男は、絞り出すような声で沈黙を破った。その言葉には幾重もの悔恨、そして憤りが込められている。
「私の力が及ばなかったばかりに……。太閤の力が、まさか……あれほどとは……」
「久脩(ひさなが)さまのせいでは」
聞き取れぬほど小さな声で少女が言った。透き通るような白い肌が月明かりに照らされる。歳のころは十歳前後で、その大きな瞳は彼女の聡明さを表している。
「いいや、私のせいだ」
男は首を左右に振った。少女とは対照的な浅黒く痩せこけた頬が、歪む。
わかっていたはずだった。
そう男は考えている。僅かな期間とはいえ苦楽をともにした貴人の壮絶な死もあり、激しい自責の念は、もはや男には制御のつかないものになりつつある。
第六天魔王と呼ばれた織田信長が本能寺で斃れ、その天下を掠め取った太閤・豊臣秀吉は、もはや信長以上に酷薄な闇の王となっている。そのことを男は、十全に理解していたはずであった。だが、そこから導き出された想定が甘くなかったかと問われると、なにも言えない。やはり、考えも実力も足りなかったからこその結末なのだろう。確かな現実の前では、少女の慰めなど雨粒の一つよりも儚く意味のないものだ。
黙り込む少女に男は、すっと獣道の先を指差す。
危険が迫っていた。
関白・秀次による秀吉暗殺の目論見が露見した以上、その背後にいる己の存在が太閤に知られるのは時間の問題である。この企みに陰陽師が関わっていたことは、すでに知られている。為すべきは、隣を歩く少女を太閤の手から逃すことだ。この少女さえ生きていれば、かの偉大な安倍晴明(あべのせいめい)の真の力は、この世に残り続ける。
「行きなさい」
男は足を止め、まっすぐ延びる暗い細道の先へと促す。
「私はここまでだ」
それは先の見えない、子供一人で進むにはあまりに恐ろしい道である。
「行きなさい、お前は行かねばならぬ」
「しかし、久脩さま───────」
ためらう素振りで、少女は不安げに男の名を呼ぶ。怖(おじ)気(け)づいて当然だった。山には血に飢えた獣がいて、崖があり、賊もいる。保護する者のない旅路を行くには、少女はあまりに幼かった。男の胸は痛んだ。しかし他に道はない。ともにいることこそが、すべてに勝る危険なのだ。
「行け!」
厳しい声に少女の肩がびくりと震える。小さな唇をきつく閉じ、目には涙が浮かんだ。だがその涙を流すことはなく、少女は一つ頭を下げると踵(きびす)を返して暗い細道をひた走る。
男は黙ったまま、その小さな背が闇を駈けゆくのを確認すると、懐から白い人形(ひとがた)の和紙を取り出した。“擬人式神”と呼ばれるその紙に息を吹き込み、風に乗せる。式神は微かに光り、まるで意思があるかのように少女の後を追った。
それが男にできる最後の、正統な血筋に向けた奉公であった。式神の行方を見届けると、男はただ一人、虚しくうつむいた。ゆっくりと一重のまぶたを閉じ、涙が一筋流れ落ちる。
夜の暗がりに明かりが灯されることは、まだない。
文禄四年某日、土御門(つちみかど)家当主であり陰陽頭(おんのようのかみ)・土御門久脩は数多の陰陽師とともに尾張国に追放の処分を受け、陰陽寮にあるさまざまな書物が焼き尽くされる、いわゆる焚書が行われた。これは秀次切腹事件に連座したものと言われている。短くも華やかな豊臣時代の、血塗られた一幕であった。
そして現代。
「吸気を体に溜め、一気に吐き出す」
白い斎服に身を包んだ明知凛(あけちりん)は、父親の指示に従って鼻から息を吸い、それを強く吐き出しながら、数メートル先にある蝋燭の炎に向けて腕を振った。炎はわずかに揺れたが、それ以上の変化はない。
夜明け前の午前五時、世田谷にある明知家から少し離れた明知神社での日課である。
「呼気を固め、それを玉にして放つイメージだ」
凛と同じく斎服姿の父はそう言うと、呼吸を操り軽やかに腕を振った。斎服の袖が暗がりのなか白い軌跡を描き、一陣の風を起こす。蝋燭の火は、いとも簡単に消えた。
「もう一度やってみなさい」
父は蝋燭に火を灯し、促した。
凛は息を吸った。早朝の新鮮な空気が肺を満たす。それを固めるイメージができぬまま、息を吐きながら腕を振る。今度はほんの少し風が起きたが、灯された火が消えることはなかった。
「難しい」
凛は今年で十七歳になる、都内の私立高校に通う二年生だ。抜けるような白い肌と、スラリと伸びた手足。長い黒髪、そして長いまつ毛と切れ長の目が印象的な顔立ちは、清楚さと知性を兼ね備えており、誰もが目を奪われるほど美しい。ただ一つ、左頬にある大きな赤い痣(あざ)を除けば。
「少しずつだが、うまくなってきている」
父が慰めるように言った。父、明知光太郎は今年で五十二歳。身長は百八十センチを超え、贅肉などない細身の体を維持している。鼻筋が通り、凛と同じく美形。安倍晴明を祖とする陰陽師の流れを汲んだ明知神社の神主だが、現在は民政党の衆議院議員でもある。
「では、祈祷を始めよう」
光太郎は凛を伴い、神社の小さな本殿に入った。通常の神社と違うのは、板の間に五芒星が描かれていることだ。凛は、その五芒星の中心に座る。父はその周りをゆっくりと歩きながら、祈祷を行う。
「元柱固具、八隅八気、五陽五神、陽動二衝厳神、害気を攘払(ゆずりはらい)し、四柱神を鎮護し、五神開衢(かいえい)、悪鬼を逐い、奇動霊光四隅に衝徹し、元柱固具、安鎮を得んことを……」
五分ほど続く。凛は目を閉じたまま手を合わせる。父の太く伸びやかな声は、不思議なほど凛の心を落ち着かせた。祈祷が終わると、父はそっと凛の左頬を覗き込んだ。
「また少し大きくなったか?」
凛の左頬に痣ができたのは、小学五年生の頃だ。最初は小さな染(しみ)のようなものだったが、しだいに大きくなり、今では左頬全体に広がっている。
「はい……」
凛は目を伏せながら答えた。この年ごろの女子に顔の痣は残酷なものだ。
「やはり凛は、さらら姫の再来だ……。痣の形が人(ひと)形(がた)になっている」
父は深刻そうな表情になった。それは娘の頬に痣ができたこととは別の心配によるものだ。凛は、三年前に母が亡くなってから父娘で暮らしており、この毎朝の不思議な慣習が唯一、父と会話をする時間となった。
明知家が特殊なことは、凛はさんざん聞かされてきた。
安倍晴明を始祖とする土御門家の支流にありながら、時の権力者と戦い続けた陰陽師の頂点に立つ家柄。その家系に連なる者は皆、運命が定められ“さらら姫”と呼ばれる伝説の姫復活の鍵を握る者もいるとされる。あまりに荒唐無稽な話だが、幼少期から幾度となく聞かされるうちに、なんの疑問も抱かなくなっていた。
「我が家の始祖、土御門久脩様が書き残した書物に“姫の復活は頬に人形の痣がある者に託される”とある。これはまさしく予言で、凛こそが託されし者ということだ」
父の表情からは苦悩の色が見てとれた。
「凛。ここ最近、さらら姫につながる夢を見たことがあるか」
明知家では代々、さらら姫は特別な存在と語り継がれている。聡明で陰陽師としての能力も高く、時の権力者だった豊臣秀吉と戦い打ち破ったなど、一般的な日本史とはかけ離れた話が伝わっているのだ。そして忽然と姿を消した姫が、いつの日か復活する。そのために明知家は存在する。いつ、そのときを迎えてもいいように、明知家では陰陽師としての術を代々磨き続けているのである。
「特に見ていません」
いつからか凛は、父に敬語を使うようになっていた。もともと言葉遣いには厳しい家なので、おかしなことではないかもしれないが、やはり父への態度としては距離がある。
「そうか……」
父は、安心したような残念なような複雑な表情を浮かべた。
■著者
眞邊明人(まなべ・あきひと)
脚本家/演出家
1968年生まれ。同志社大学文学部卒。大日本印刷、吉本興業を経て独立。独自のコミュニケーションスキルを開発・体系化し、政治家のスピーチ指導や、一部上場企業を中心に年間100本近くのビジネス研修、組織改革プロジェクトに携わる。研修でのビジネスケーススタディを歴史の事象に喩えた話が人気を博す。また、演出家としてテレビ番組のプロデュースのほか、ロック、ダンス、プロレスを融合した「魔界」の脚本、総合演出を務める。尊敬する作家は柴田錬三郎。