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プロレス解説者 柴田惣一の「プロレスタイムリープ」(13)
(連載12:ブッチャーはリング外でもフォークを持ってファンサービス 「ザ・ファンクス」との流血試合も語った>>)
1982年に東京スポーツ新聞社(東スポ)に入社後、40年以上にわたってプロレス取材を続けている柴田惣一氏。テレビ朝日のプロレス中継番組『ワールドプロレスリング』では全国のプロレスファンに向けて、取材力を駆使したレスラー情報を発信した。
そんな柴田氏が、選りすぐりのプロレスエピソードを披露。連載の第13回は、アメリカのプロレスを一大スポーツエンタテイメントへと押し上げた、ハルク・ホーガンの成長の過程を振り返った。
【決めゼリフ「イチバン」は柴田氏のあいさつがきっかけ?】
――多くの外国人レスラーのなかでも、ハルク・ホーガンは大人気でしたね。
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柴田:そうですね。WWEが開催する一番大きなイベントは「レッスルマニア」ですが、その名称も「レッスル」とホーガンのファンの呼称「ハルカマニア」を足したものですしね。当時、映画『ロッキー3』に出演したホーガンの人気はうなぎのぼり。シンディ・ローパーらとMTVに出ることもありましたね。
――決めゼリフの「イチバン」も印象的でした。
柴田:初来日は1980年5月で、彼がまだ売れる前に取材したんですが、その時に僕は「アイム ソウイチ。ユーアー"イチバン" 」と自己紹介がてら話をしたんです。そうしたらホーガンは僕のことを一発で覚えてくれて、その後に「イチバーン!」と言うようになったんですよ。外国人でも発音しやすいし、言葉の響きが気に入ったんでしょうね。
――柴田さんのあいさつがきっかけで決めゼリフが生まれたんですか?
柴田:ホーガンは周囲の人たちに、「こういう時は日本語で何と言うんだ?」とよく聞いていましたからね。僕が「イチバン」を教えた後も、いろんな人に「ナンバーワンは、日本語でどう言うのがいいんだ?」と尋ねていました。その上で、やはり「イチバンがいい」となり、多用するようになったようです。
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とにかく熱心で向上心があって、一生懸命なレスラーでしたね。プロレスラーになるまで、売れないミュージシャンだったからかもしれません。プロレスのコーチだったヒロ・マツダに「日本でひと花咲かせてこい!」と言われ来日。ブルーザー・ブロディと同じようにハングリーで、日本語を懸命に覚えていたし、日本を知ろう、日本に溶け込もうといろんな場所に足を運んでいました。
【猪木の教えで「でくの坊」から成長】
――1980年11月に開幕した、新日本プロレスの「第1回MSGタッグ・リーグ戦」では、スタン・ハンセンとのタッグで準優勝しました。
柴田:ホーガンは身長が201cm。アメリカナイズされ、大きな会場でも映えるし、筋骨隆々な姿を観客にアピールするパワーファイターでした。ただ、動きが大きいから来日当初は"大味"な感じで、「でくの坊」とも言われていましたね。そこにレスラーとして魂を吹き込んだのはアントニオ猪木さんでしょう。
――1982年と1983年のMSGタッグ・リーグ戦は、猪木さんとのタッグで2連覇。この頃、ファイトスタイルが大きく変化しましたね。
柴田:来日当時は、外国人レスラーも含めて、誰もホーガンと対戦したくなかったんです。パワーだけで、技もないし受け身も取れなかったですから。あの巨体で相手の腕や脚を極めたり、細かいグラウンドの攻防に対応できるレスラーに成長しましたね。
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――2、3年でグラウンドの攻防をマスターし、試合展開も変化しました。かなり努力したんですね。
柴田:今は外国人選手も、新日本プロレスのロサンゼルス道場や各団体に入門して日本のプロレスを学べますが、当時はそんな場所はなかったですからね。試合前に猪木さんが教えていたんでしょう。
タイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセンと並び、猪木さんが育てた最高傑作のひとりが「ハルク・ホーガン」。まさに日本育ちのレスラーです。技術が未熟すぎて、みんなが対戦したがらなかったレスラーが、世界のトップレスラーになった。素晴らしいですよ。
ホーガンの"ザ・アメリカ"な部分に憧れるレスラーもいましたね。たとえば、西村修。彼はアメリカの文化が好きで、ダイナミックなホーガンのファイトに魅了されていました。自身のファイトスタイルとはずいぶん違いますけどね。
――私も学生の時、部屋に第一回IWGPリーグ戦で優勝したホーガンのポスターを貼っていました。
柴田:1983年の第一回大会というと、猪木さんが"舌出しKO"された大会ですね。
――優勝したホーガンの表情が曇っていましたね。
柴田:ホーガンのアックスボンバーで、猪木さんは病院送り。基本、ホーガンはいい人だから、優勝した喜びより猪木さんのことを気遣ったんでしょう。
【WWFでスーパースターに】
――印象的な試合が多く、ホーガンの「一番Tシャツ」も売れていましたね。
柴田:タンクトップやハッピもありましたね。ホーガンの影響で、"ICHIBAN" はアメリカでも有名な日本語のひとつになりました。
――ホーガンは1981年から、アメリカでの主戦場をAWAに移しました。当時のAWA王者はニック・ボックウィンクルで、ホーガンは何度も対戦しましたがタイトル奪取はなりませんでした。
柴田:ニックは少しクセはありましたが、ジェントルマンで、クレバーで最高のAWA世界王者でした。ルックスもよくて、スーツを着たら映画俳優さながら。ホーガンがAWAに行ったのは正解ですよ。AWA世界王座は奪取できなかったけど、ニックなどと戦うことで知名度が上がりましたから。
――この頃のホーガンは、アメリカでもあまり評価されていなかったようですね。
柴田:アメリカこそ、力自慢のレスラーがたくさんいますから。当時のNWA王者リック・フレアーにしてもWWF(現WWE)王者のボブ・バックランドにしても、パワーやテクニックだけではなく、観客の心を読み、動かしていた。テクニックやストラテジー(戦略)を重要視していて、「こう動いたら、相手はどう動くのか。それによって観客はどう感じるのか」と考えながら戦っていた印象です。猪木さんもそうでしたから、近くで学べたのは大きかったですね。
――1982年に映画『ロッキー3』が公開され、アメリカでホーガンの知名度が上昇。翌年12月、来日中にWWFと専属契約を交わしています。
柴田: AWAの名レスラーで、引退後は団体を経営していたバーン・ガニアは、WWFにホーガンを引き抜かれて大激怒していました。それを尻目に1984年1月、ホーガンはアイアン・シークを破ってWWF世界ヘビー級王座を初戴冠。そこからスーパースター街道を駆け上がりました。
私は1980年代半ばに、ツアーでアメリカのいたるところに取材に行きました。当時はWWFが全米進出を進めていましたが、まだ寛容な時代で、バックステージにも入ることができたんです。ある試合前に、各選手が血圧検査などドクターチェックを行なっていて、血圧を測っているホーガンの写真を撮ったんです。その横顔が疲れていて、「スーパースターのホーガンも疲れるんだな」と感じましたね(笑)。アメリカは移動も大変ですから。
――ホーガンは新日本プロレスにも継続して出ていましたが、1985年10月に新日本プロレスとWWFの提携が解消され、しばらく来日できませんでしたね。
柴田:1985年6月に、愛知県体育館で猪木さんのIWGP王座に挑戦したばかりでしたね。次に新日本プロレスのリングに上がったのは1993年5月。福岡ドームでグレート・ムタと対戦しました。
当時、新日本プロレスはWCWと提携していましたから、現役WWF世界ヘビー級王者だったホーガンの出場はあり得ないことでした。その後もホーガンはアメリカで活躍しましたが、あの試合に出たのは、どこかで日本に"里帰り"したい気持ちがあったのかもしれませんね。
【プロフィール】
柴田惣一(しばた・そういち)
1958年、愛知県岡崎市出身。学習院大学法学部卒業後、1982年に東京スポーツ新聞社に入社。以降プロレス取材に携わり、第二運動部長、東スポWEB編集長などを歴任。2015年に退社後は、ウェブサイト『プロレスTIME』『プロレスTODAY』の編集長に就任。テレビ朝日『ワールドプロレスリング』で四半世紀を超えて解説を務める。ネクタイ評論家としても知られる。カツラ疑惑があり、自ら「大人のファンタジー」として話題を振りまいている。