縄跳びが上手くできなくなり…小5で発覚した5万人に1人の“難病”と闘う女性「夫と出会い、素直に弱音を吐けるようになった」

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2025年03月04日 11:30  ORICON NEWS

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5万人に1人の“難病”で歩く力と聴力を失ったたなちゃんさん
 5万人に1人の難病「神経線維腫症2型」により、歩く力と聴力を失ってしまった、たなちゃんさん。SNSで投稿した自己紹介動画が28万回再生を超える反響を呼び、「明るくポジティブでアクティブで素敵」「あなたこそ真のファイター」「元気を貰っています」などと、さまざまなコメントも寄せられた。難病と闘う日々について、投稿者のたなちゃんさんに聞いた。

【写真】「よく転ぶ子どもだった」小学生の頃から徐々に異変が…5万人に1人の難病のたなちゃんさん

◆縄跳びが上手くできなくなり…5万人に1人の“難病”と闘う女性「現在も体の至るところに腫瘍がある」

――いつ頃病気が発覚し、何の病気で車椅子生活になったのでしょうか?

【たなちゃんさん】 小学5年生の時に、指定難病「神経線維腫症2型」と診断されました。普通の人は生まれながらに腫瘍を抑制する細胞を持っているのですが、私は遺伝子に異常があり、その細胞がうまく作れず、体中の神経に腫瘍ができてしまいます。小4〜5年の頃に縄跳びによく引っかかるようになり、左脚だけ少し痩せているような気がして受診したのがきっかけです。当時はまだあまり知られていなかった病気なので、大きい病院を3〜4件渡り歩き、さまざまな検査をしてやっとこの病気が発覚しました。

――2年に一度はどこかしらを手術しているとのことですが、現在の状況を教えてください。

【たなちゃんさん】 現在も体の至るところに腫瘍がありますが、この病気でできる腫瘍自体は良性なので、無治療でも問題はないです。ただ、腫瘍が成長したり、できる場所が悪かったりすると神経機能に障害が出るので、治療が必要になるので、そういった場合は手術で切除してもらっています。

――病気の時系列としては、どういった感じだったのでしょうか?

【たなちゃんさん】 この病気の合併症に白内障があるので、4歳で白内障のオペをしました。その後、19歳で腕の腫瘍切除、20歳で親指の筋肉再建をしました。腕の腫瘍で親指の筋肉が落ち、一時はお箸も持てない状況でした。21歳頃から、ずっと小さかった両耳の聴神経腫瘍が大きくなり始め、少しずつ聞こえにくくなり、脳の腫瘍で声帯が麻痺して声も出なくなっていたので、22歳で声帯脂肪移植。23歳で脳腫瘍(右聴神経腫瘍)を摘出し、右耳失聴、顔面麻痺を併発しました。

――壮絶ですね…。

【たなちゃんさん】 26歳で首の腫瘍を摘出し、ふらつきがひどくてこの頃から車椅子生活になりました。29歳で脳腫瘍(左聴神経腫瘍)を摘出し、左耳失聴となり、このとき全ろうになりました。30歳で人工内耳装着手術をして、現在31歳です。現在も脳内および体のあちこちに大きな腫瘍を抱えていて、経過観察中です。

◆周りとの格差に心がえぐられたことも…車椅子になり、社会のあらゆるバリアに気づいた

――体調に異常を感じた際、どのように思いましたか?

【たなちゃんさん】 幼少期は活発で強気な子どもでした。兄と地域のソフトボールチームに入ったり、HIP HOPダンスを習ったりと、体を動かすことが好きでした。その後、小学校後半に体に異変が起こり出しました。最初は「つまずきやすくなったかな?」「縄跳びがこんな下手だったかな?」という自覚から始まり、その1〜2年後には友達から「走り方がおかしい」と笑われるようになりました。

 病名がわかってからは、ダンスや体育の授業で大人から「無理しなくていいからね」と言われるように…。今でこそ気遣ってくれていたのだとわかりますが、当時は「私はみんなと違う」という事実を突きつけられているようで複雑でした。

――車椅子生活になった際の心境は?

【たなちゃんさん】 大人になるにつれて、足の力はどんどんなくなりました。転倒することも増え、お出かけしても少ししか歩けず、もどかしかったです。私は急に歩けなくなったのではなく、徐々に足が弱っていったので、車椅子に乗ることも自分で決断しました。

 車椅子になり、立っていた頃には想像もできなかった社会のあらゆるバリアに気づきましたし、慣れない車椅子との生活は不安でした。でも、慣れてくると、立っていた頃より長い距離を移動できるようになりました。そういった意味では、車椅子になったことを私はそこまでネガティブに感じてはいなかったかもしれません。

――「本気で取り組んでいたクラリネット奏者の夢も絶たれ、毎日孤独で泣いていた」と投稿されています。当時の心境を教えてください。

【たなちゃんさん】 耳が聞こえにくくなったことは、これまでの人生で一番ショッキングな出来事でした。音楽を志していた私にとって、聴力がなくなっていくことは死んだも同然で、周りの音楽仲間はいつも素敵なステージに立ってキラキラ輝いているように見えました。当時は20代前半、同級生たちがフレッシュな社会人生活をスタートさせていた時期でもあり、周りと自分との格差に心がえぐられるような気持ちで、よく1人で泣いていました。

――「次第に心が壊れていく自分がいた」とも投稿されていましたね。

【たなちゃんさん】 聴力も次第に落ちていき、スムーズなコミュニケーションを取ることも難しくなりました。聞こえにくいことが何をするにも壁となり、いつしか人と関わること自体を避けるようになりました。音楽仲間はもちろん、昔からの友人などとも連絡を断ち、職場でも人とあまり話しませんでした。孤独を一番感じていた時代かも知れません。

◆“バリアの超え方”を教えてくれた同じ境遇の仲間と寄り添ってくれた夫の存在

――今改めて思うことは?

【たなちゃんさん】 今でも音楽活動については、深く振り返ることができません。テレビでオーケストラが出てこようものなら、光の速さでチャンネルを変えます(笑)。一度振り返ったらまた悲しみの闇に落ちてしまい、もう戻ってこられない気がする。それだけ情熱を持っていたんだ、深く傷ついたんだと、今は思い出として心にそっとしまっています。

――今でこそ「常に楽観的」「なんとかなるさ精神」とのことですが、どのようなことがきっかけで気持ちが前に向いたのでしょうか?

【たなちゃんさん】 夫と、同じ境遇の仲間たちとの出会いが大きな転機でした。夫とは19歳の頃に交際を始めました。当初はまだ自分の足で歩けて、耳も聞こえていましたが、成人した頃からあらゆる異変が体に起こり始めました。私は気が小さく、周囲に迷惑をかけたくないという思いがあり、何度も彼に別れを告げました。でも、夫はいつもそんな私の気持ちを理解し、変わらずそばにいてくれました。

――素敵なパートナーですね。

【たなちゃんさん】 わざと私と同じように変な歩き方で街を歩いたりして、変に気を使わず、腫れ物に触れるような扱いもせず、むしろ私の病気を唯一「笑い」に変えようとしてくれた、ユーモアに溢れた人です。開頭手術の後遺症で顔面麻痺になった際も、私と同じように歪んだ顔で院内を歩き、私を笑わせようとしてくれました。彼といると私が私のままでいられて心地良く、夫にだけは素直に弱音を吐けるようになりました。

――同じ境遇の仲間たちとの出会いというのは?

【たなちゃんさん】 SNSや仕事を通じて出会った同じ境遇の仲間たちの存在も大きかったです。お互いに情報を交換し合ったりする中で、みんなが前向きで明るい姿勢を持っていることに、とても勇気づけられました。彼らは「バリアの超え方」を背中で教えてくれる存在で、私もその影響を受けて、自信を持って前に進むことができています。私の中に新しい世界が広がっていき、音楽がなくても幸せや喜びを感じられると教えてくれた夫や仲間たちには、感謝してもしきれません。

このニュースに関するつぶやき

  • 遺伝子治療でこういう病気が改善されるようになればいいのにねぇ。医療の進歩が彼女の希望になりますように。
    • イイネ!11
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