佐竹雅昭が明かす、バンナ戦後のK-1長期休養の真相 ヘビー級での連戦に医師から警告「脳が委縮するかもしれない」

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2025年04月03日 18:11  webスポルティーバ

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空手家・佐竹雅昭が語る「K-1」と格闘家人生 第13回

(第12回:サム・グレコ戦で自覚した「脳へのダメージ」の蓄積 その後のキモ戦は「キャリアのピーク」>>)

 現在の格闘技人気につながるブームの礎を作った「K-1」。その成功は佐竹雅昭を抜きには語れない。1980年代後半から空手家として活躍し、さらにキックボクシングに挑戦して勝利するなど、「K-1」への道を切り開いた。

 59歳となった現在も、空手家としてさまざまな指導、講演など精力的に活動にする佐竹氏。その空手家としての人生、「K-1」の熱狂を振り返る連載の第13回は、1995年5月から1年5カ月に渡った長期欠場の真相を語った。

【バンナ戦のKO負けは「いろんな意味で限界がきていた」】

 1995年3月、第3回「K-1グランプリ」の1回戦で、アメリカの格闘家キモを大激闘の末に破った佐竹は、2カ月後の5月、代々木第一体育館での決勝トーナメントに挑んだ。前年に準優勝を果たしていたため、「今年こそは優勝」と誓って迎えた準々決勝の対戦相手は、フランスのキックボクサー、ジェロム・レ・バンナだった。

 身長190cm、体重120kgを誇る剛腕サウスポーは当時22歳で、このK-1グランプリが初参戦。1回戦でムエタイのノックウィー・デービーに判定勝ちを収めていたが、佐竹は当時のバンナについてこう振り返る。

「フランスは、サバットという伝統的な足技中心の格闘技があるので、蹴りが得意な選手かと思ったら、全然違って筋肉ムキムキのパンチが強い選手でしたね」

 試合は、体格で佐竹を上回るバンナが1ラウンドから左ストレート、左ローキックを中心に圧力をかけてきた。佐竹はガードを固め、左ミドルなどで応戦するが決め手に欠く。2ラウンドも両者は距離を置いてローキックの差し合いなどで膠着状態が続いた。

 迎えた3ラウンドは一転して、激しいパンチの打ち合いで佐竹も右フックを顔面に入れる。しかし、バンナの左ストレートを浴びると、あとずさりしながら一度はこらえたが、最後は崩れ落ちた。苦悶の表情で立ち上がろうとするも試合を止められ、ゴングが鳴った。

 K-1制覇の夢は3年連続でついえた。佐竹を破ったバンナは準決勝でマイク・ベルナルドをKOで破り、決勝に進出。ファイナルはピーター・アーツとの対戦となり、アーツがKO勝ちを収めて2連覇を達成した。

 佐竹は、バンナ戦では気力も失っていたことを明かす。

「もちろんパンチのダメージもあったんですが、今振り返ると、気持ちが切れたような倒れ方でした。あんな形でKO負けするということは、いろんな意味で限界がきていたということなのかなと思います」

【ドクターストップ、当時のK-1の体制も休養の原因に】

 佐竹が明かした「限界」は、深刻な体調不良として表れていた。試合中に記憶を失った前年12月のサム・グレコ戦で脳へのダメージを自覚した佐竹は、このバンナ戦の前から日常生活でも「急にグラ〜ンと目まいがする、といった症状が出ていました」と説明する。キモ戦でもリング上で意識が飛び、不安を抱えながら迎えたバンナ戦。強烈な左ストレートを浴び、ダメージと同時に命の危険を感じ、気力も切れたのかもしれない。

 バンナ戦後、佐竹は都内の大学病院で脳のCT検査を受けた。

「精密検査を行なった結果、医師から『このまま闘い続けると脳が委縮するかもしれない。しばらく休養が必要です』と宣告されました。それで休むことを決断したんです」

 激闘の連続で負った脳へのダメージによる長期欠場。ただ、当時は本当の理由を明かすことはできなかった。

「関係者から、『脳のダメージが原因で休んだことになるとK-1のイメージが悪くなるから、黙っとけ』って言われたんです。だから、当時はファンのみなさんの間でさまざまな憶測を呼ぶことになってしまいましたね」

 ドクターストップがかかったわけだが、当時のK-1が、選手の安全を守る体制ができていなかったことも休んだ一因だったという。

「例えば、ドーピング検査はあったんですが、ある選手はトイレに入って大便用の個室にトレーナーとふたりで入って、尿をカップに入れて出てきて、それを提出していました。当然、本人の尿じゃないんじゃないかという疑惑がありますよね? それを許すようなリングに上がることはできませんでした」

 ドーピング検査についても、当時のK-1は整えられていなかった。

「K-1は突然、人気が爆発しましたが、プロ野球やJリーグのように選手の待遇、安全を守ることなどの規約が整備された組織になる前にブームを迎えてしまった。『K-1事務局』というものもありましたが、それは名ばかり。だから、これは言葉は悪いですが、当時のK-1は"見世物小屋"と同じで、僕もその一部に過ぎなかったんです。

 それは、欠場する前から感じていたことでした。選手を守ってくれない組織だったので、自分の生活は自分でちゃんと守らないといけないと思い、以前にこの連載でも話しましたが、自分で『怪獣王国』という事務所を作ったんです。僕は、闘うことが仕事でしたが、K-1事務局を頼りにしても生活の保証はなかった。だから違う分野で自分を宣伝して、自力で食っていけるものを作っていかないといけなかったんです」

【リング外での闘い】

 佐竹は1993年4月の第1回「K-1グランプリ」から、欠場する前のバンナ戦までの約2年間で14戦も戦っている。1994年3月4日にアーネスト・ホーストにKO負けしたあとなどは、わずか57日後の4月30日にK-1グランプリの1回戦でマイケル・トンプソンと試合を行なっている。

 プロボクシングでは、KO、TKO負けをした選手は、安全面を考えて90日間はマッチメイクが禁止されている。どのスポーツでも、何よりも大切なのは選手の健康。過酷すぎるマッチメイクを強いた当時のK-1は、「スポーツ」としての格闘技ではなかった。

「だから、あんなヘビー級の過酷な試合がつづいたのに、生きててよかったと本当に思います。僕は自分の命を守るために休んだんですが、あの頃は『選手の健康』なんて言ったら、『何を言うてるんや』と怒られる時代でした。

 休むことを決めた時は、自分なりの考えでやっていかないといけないと思いましたよ。いろんな方々にお世話になって、テレビやラジオ出演など芸能の分野でお仕事をいただいていたので、休んでいる間はタレントとして活動させていただきました」

 試合から離れて芸能活動をする佐竹に対し、ファンからは批判の声も上がったという。

「『佐竹は試合に出ず、芸能ばっかりやっている』と批判されました。だけど、反論はできませんでした。本当の理由は黙っとけ、でしたからね。当時は、批判している方々もいつかはわかってくれる、と思って頑張っていました」

 脳のダメージでの欠場で、肉体的、精神的にもさまざまな葛藤を背負うことになったが、佐竹はテレビ、ラジオなどの芸能活動でもリング上と同じように輝いた。ビートたけしがMCを務めるゴールデンタイムの超人気番組でもレギュラーを獲得することになる。

(つづく)

【プロフィール】

佐竹雅昭(さたけ・まさあき)

1965年8月17日生まれ、大阪府吹田市出身。中学時代に空手家を志し、高校入学と同時に正道会館に入門。大学時代から全日本空手道選手権を通算4度制覇。ヨーロッパ全土、タイ、オーストラリア、アメリカへ武者修行し、そこで世界各国の格闘技、武術を学ぶ。1993年、格闘技イベント「K-1」の旗揚げに関わり、選手としても活躍する傍ら、映画やテレビ・ラジオのバラエティ番組などでも活動。2003年に「総合打撃道」という新武道を掲げ、京都府京都市に佐竹道場を構え総長を務める。2007年、京都の企業・会社・医院など、経営者を対象に「平成武師道」という人間活動学塾を立ち上げ、各地で講演を行なう。

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