「SaaSの時代は終わった」――。2024年末、マイクロソフトのサティア・ナデラCEOがベンチャーキャピタリスト主催のポッドキャスト番組で放った一言が、ソフトウェア業界に衝撃を与えた。SaaS(Software as a Service)はクラウド上でソフトウェアを提供するビジネスモデルとして、この20年間でIT業界の主流となってきた。その“死亡宣告”とも取れる発言は何を意味するのか。
【画像】「経費精算」をもしAIエージェントが助けてくれたら、こんなにも簡単になる! マネーフォワードの構想
ナデラCEOの真意は「従来型の業務アプリケーションはAIエージェントが台頭する時代には崩壊し、SaaSの時代は終わる」というものだった。「現在のSaaSアプリケーションは結局GUI付きのデータベースにすぎず、ビジネスロジックはAIエージェント側に移行していく」という指摘は、多くのSaaS企業経営者の神経を逆なでした。
この発言が業界で反響を呼んだ背景には、すでに顕在化していたSaaSビジネスモデルへの懸念がある。かつては年率30%以上の成長が当たり前だったクラウド企業群も、近年では20%以下に減速し、成長率は過去最低水準を記録している。また、企業が利用するSaaSの導入数が増えすぎて管理が難しくなり、2023年には平均使用アプリ数が初めて減少に転じたとの報告もある。市場の飽和と競争激化により、新規顧客獲得コスト(CAC)も上昇の一途をたどっている。
実際、フィンテック大手のKlarna社は2024年、営業支援に使っていたSalesforceや人事管理のWorkdayといった主要SaaSを解約し、自社開発のAIソリューションで代替する計画を発表した。こうした動きが「SaaS is Dead」論の現実性を高めている。業界専門家の間ではナデラCEOの発言を受け、「これはSaaSの終焉(しゅうえん)を告げる墓碑銘なのか」「従来型SaaSへの投資はもはや時代遅れなのか」といった議論が白熱している。投資家の間でも「SaaSユニコーン」と呼ばれる高評価のスタートアップ企業への見方が一変しつつある。
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「AIエージェントがSaaSを置き換える時代が来れば、UIに投資してきた従来型SaaS企業は恐竜のように絶滅する運命なのか」――この疑問は、SaaS企業の経営者たちを不安に陥れている。その中で、いち早く戦略転換を打ち出した企業も現れ始めた。国内SaaS企業の代表格であるマネーフォワードもその一つだ。同社が4月に発表した「Money Forward AI Vision 2025」は、まさに「SaaS is Dead」時代の到来を見据えた野心的な打開策といえる。
●マネーフォワードのAI戦略「Money Forward AI Vision 2025」
「マネーフォワードはNo.1バックオフィスAIカンパニーへ」――4月、辻庸介CEOは満を持して新たな戦略「Money Forward AI Vision 2025」を発表した。ほぼ全リソースをAIにシフトするという大胆な宣言は、「SaaS is Dead」の波が押し寄せる中での決断だった。
辻CEOが描くビジョンの根底にあるのは「DX(Digital Transformation)からAX(AI Transformation)へ」という大きな転換だ。「DXは人がITやクラウドを活用することによって業務を効率化する変革だが、AXはAIが自律的に動いて業務を変革していく」と辻CEOは説明する。つまり、人間がSaaSツールを操作するという従来のモデルから、AIがデジタルワーカーとなって自律的に業務を遂行する新時代の到来を見据えているのだ。
この背景には、人手不足に悩む中小・中堅企業が抱える深刻な課題がある。デジタルツール市場(2.2兆円)からデジタルワーカー市場(13.3兆円)へと視野を広げることで、「人件費よりもこちらに投資したほうがいい」と顧客に思わせる価値提供を目指している。
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●マネーフォワードのAI戦略「3つの柱」
マネーフォワードのAI戦略は3つの柱で構成されている。第1の柱は「AIエージェント」だ。辻CEOは「SaaS is NOT dead」と力強く主張する。「UIの部分が入力不要になってAIエージェントに置き換わっていくが、裏側のロジックやデータはあまり変わらない。むしろロジックとデータがより重要になっていく」との見解だ。
具体的には経費精算、会計、人事の各領域でAIエージェントを開発中だ。例えば経費エージェントは、カード利用を自律的に判断して「カードの利用がありました。領収書を共有いただければ利用報告をしておきます」と提案。ユーザーは領収書を添付するだけで、科目や部門、プロジェクトの類推から申請作成まで自動で行われる。会計エージェントは経理担当者に代わって「経費申請の未承認者にリマインドを送りますか?」と提案し、異常値の自動チェックも行う。
第2の柱は「AIエージェントプラットフォーム」構想だ。他社も含め、さまざまなAIエージェントがマネーフォワードのSaaSと連携する世界を描く。スマートフォンとアプリの関係のように、ユーザーが必要なAIエージェントを選んで使える環境を目指す。「ユーザーフォーカス」「Let's make it!」の姿勢のもと、自社・他社サービス問わずつながり、エコシステムを形成する野心的な構想だ。
第3の柱は「AXコンサルティング」。中堅・エンタープライズ企業や金融機関向けに、AIを活用したバックオフィス向け業務コンサルティングを提供する。500社以上のバックオフィス業務コンサルティング実績をもとに、「設計する」「実装する」「運用支援する」の3ステップでAI導入を支援する。
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これらの戦略の背景には、マネーフォワードが築いてきた事業基盤がある。同社はこれまでに1664万人以上の個人ユーザー、40万社以上の法人顧客からなるユーザーベースと、13年間にわたる業務データの蓄積を持つ。AIエージェントは単なる技術ではなく、これらの膨大なデータと業務ロジックがあって初めて価値を発揮する。ビジネス部門のプロダクト責任者を務める廣原亜樹執行役員は「AIエージェントがいかに賢く動くかは、AIエージェント自体が使うロジックがいかにそろっているかが重要。このロジックを活用しているから賢い動作ができる。その裏にはデータがある」と説明する。
同社の既存のSaaSでもAI活用がすでに進んでいる。「クラウド会計 Plus for GPT」は貸借対照表・損益計算書を読み解き、異常値の検出とアドバイスを行う。「クラウド契約」では契約書をAI-OCRで読み取り、企業ごとにカスタマイズした管理項目も含めて台帳化する。前者は台帳作成時間の約53%、後者は書類作成時間の約55%を削減したという実績がある。
掲げる目標は壮大だ。2028年度までに、カスタマーサポート業務、セールス、開発の各領域で生産性を2倍以上に高め、一人当たり売上高を現在の約1500万円から約3000万円以上へと引き上げる計画だ。辻CEOは「2025年中にAIエージェントを順次リリースし、AIエージェントプラットフォームに参画希望のパートナーを募集開始する」と明言した。先んじて戦略を実行に移すことで、「SaaS is Dead」の時代に新たな生命線を見いだそうとしている。
●AIエージェントが揺るがすSaaSの基盤
AIエージェントの台頭は、SaaS業界全体に構造的な変化をもたらしつつある。従来のSaaSは「データベースのラッパー」とも表現される。つまり、データを格納するデータベース層、そのデータを処理するビジネスロジック層、そして人間がそれを操作するためのUI(ユーザーインタフェース)層という三層構造を持つ。SaaS企業は長年、UI/UXの洗練に多大なリソースを投じてきたが、AIエージェントの登場により、この構造の価値バランスが崩れつつあるのだ。
第1に、UI/UXの価値低下が起きている。AIにとってSaaSに必要なのはデータと文脈の提供のみであり、それはAPIがあれば十分となる。このため、人間が見やすく操作しやすいUIを作り込む価値が大幅に減少する。
第2に、ビジネスロジック層も長期的には変化する可能性がある。現状ではSaaSにハードコーディングされたロジックが強みだが、LLMの進化によって、こうした業務ロジックの一部もAIが代替できるようになるかもしれない。マネーフォワードの廣原執行役員は「ロジックがややこしいものについては、上にAIエージェントを乗せていくのがまず一歩」と語っている。つまり複雑な業務ロジックはSaaS側に残るが、より単純な処理はAIが担うようになると考えられる。
こうした変化の中で、SaaSの最後の砦はデータとなる。しかし、AIの画面操作機能や画像認識精度が向上すれば、APIがなくてもデータを「引き抜く」ことが将来的には可能になるだろう。AI側の処理コストが低下すれば、APIがなくてもデータ移行が実行できるようになるかもしれない。
この変化を見据え、多くのSaaS企業がデータ戦略の再構築に動いている。マネーフォワードもその1つで、「統合データマート」構想を打ち出した。自社サービスのデータだけでなく、他社業務系SaaSや基幹システム、CSVファイルなど多様なソースからデータを一元化し、そこにAIエージェントがアクセスする形を目指す。
1つのデータベースに全てのデータを記録するfreeeのような統合型サービスに対し、マネーフォワードは各プロダクトにデータを分散して保存するというコンポーネント型の仕組みを採っている。しかしこれはAI時代にはマッチしない。これを解決するため、個々のプロダクトのデータベースではなく、自社・他社含め全データがまとまった1つのデータベースを構築するのが統合データマート計画だ。ただし、他社にとってもデータは最重要の収益源であり、戦略的資産だ。マネーフォワード自身も無料プランではデータの書き出しに制限を設けるなど、データを囲い込む戦略を採用している。
こうした状況を打開する方法として、コンピュータを自動操作させるAI技術(Computer Useなど)を活用し、ブラウザを通じてデータを取得する方法も検討されている。グループCDAO(チーフ・データ・アンド・アナリティクス・オフィサー)である野村一仁執行役員は「公開されているデータは取ってくる」と説明する。しかし当然、各ベンダーもAIからのアクセスを検知して拒否する対策を講じるだろう。これはデータを巡る新たな攻防の始まりを意味している。
AIエージェントの実用化にはその他にも課題がある。辻CEOは「バックオフィスは正解のある世界。シングルタスクのAIエージェントはうまくいく」と指摘し、複数の専門AIエージェントの上に「マネジャー的なAIエージェント」を置く階層構造を構想している。これは各業務領域に特化したAIエージェントがそれぞれの専門業務を処理し、それらを統括する上位エージェントが全体を調整するという考え方だ。
また、業界全体での「AIエージェントの標準化」も重要な課題となる。AIエージェント間でスムーズに連携するには、共通のインタフェースやプロトコルが必要だ。マネーフォワードが提唱する「AIエージェントプラットフォーム」は、この標準化を先取りする試みといえる。自社エージェントと他社エージェントが同じプラットフォーム上で協調できる環境を整えることで、ユーザーはベンダーを問わず最適なエージェントを組み合わせて利用できるようになる。しかし、各社がそれぞれの利益を追求する中で、こうしたオープンなエコシステムを実現できるかは不透明だ。
●SaaSは死なず、進化する
SaaSビジネスの将来はどうなるのか。市場データを見る限り、SaaS業界そのものは依然として成長を続けている。ガートナーなど調査機関によれば、グローバルのSaaS市場規模は引き続き年間15〜20%の成長を続け、2025年には3000億ドル規模に達すると予測されている。問われているのはSaaSの存在そのものではなく、その形態だ。
今後のSaaS進化の方向性はいくつか見えてきた。まず「AIネイティブSaaS」の台頭だ。ChatGPTをはじめとする生成AIの一般化により、最初からAI機能を中核に据えたソフトウェアが増加している。マネーフォワードの「クラウド会計 Plus for GPT」もその一例だ。ユーザーは複雑なマニュアル操作から解放され、AIと対話するだけで業務を完了できる。
第2に「エージェント指向・自動化プラットフォーム」への進化がある。従来型SaaSが人間向けインタフェースを提供していたのに対し、AIエージェント時代にはソフトウェア同士が連携し合う層が重視される。人間には対話インタフェースを、裏側ではマルチアプリを調停するエージェントを提供するサービスが主流になるだろう。マネーフォワードの「AIエージェントプラットフォーム」構想はこの方向性を先取りしたものだ。
第3に「PaaS化・オープンプラットフォーム」の流れがある。SaaS企業自体の進化として、外部開発者やパートナー企業が自社プラットフォーム上でアプリや拡張機能を作れる仕組みを提供する動きが活発化している。こうしたエコシステムを形成することで、単なるアプリケーション提供から脱却し、プラットフォームビジネスへと進化する。
ビジネスモデルの面でも、「使用量ベース・バリューベースの課金モデル」へのシフトが進んでいる。従来のSaaSは月額・ユーザー数ベースの固定料金が主流だったが、実際の使用量や成果に応じて料金が変動するモデルが増加している。マネーフォワードの辻CEOも「AIエージェントでプライシングの方法は変わるだろう。データ量、処理数の課金料に変わっていく」と予測している。
マネーフォワードの戦略は、AIエージェント時代を生き抜くための一つのロードマップを示している。それは(1)データとロジックを核心に据え、(2)AIエージェントによる自律的業務処理を実現し、(3)オープンなエコシステムを形成し、(4)業務知識とテクノロジーを融合させるというものだ。既存SaaS企業は、こうした方向性を参考にしながら、自社の強みを生かした独自のAI戦略を模索すべきだろう。
ナデラCEOの「SaaS is Dead」発言から始まった議論は、ビジネスソフトウェアが直面する大変革の始まりを告げるものだった。その変革の波に乗り、新たな付加価値を創出できるSaaS企業だけが、AI時代の勝者となるだろう。マネーフォワードのAIビジョンは、その挑戦の一つの形を示している。
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