
空手家・佐竹雅昭が語る「K-1」と格闘家人生 第16回
(第15回:K-1復帰戦で「青い目のサムライ」アンディ・フグと対戦「あの内容が僕の限界だった」>>)
現在の格闘技人気につながるブームの礎を作った「K-1」。その成功は佐竹雅昭を抜きには語れない。1980年代後半から空手家として活躍し、さらにキックボクシングに挑戦して勝利するなど、「K-1」への道を切り開いた。
59歳となった現在も、空手家としてさまざまな指導、講演など精力的に活動にする佐竹氏。その空手家としての人生、「K-1」の熱狂を振り返る連載の第16回は、マイク・ベルナルドとの壮絶な試合と、「ジャパングランプリ」について語った。
【"剛腕"ベルナルドとの打ち合いに観客が熱狂】
1996年10月18日、アンディ・フグ戦で長期休養から復帰した佐竹は、翌年から本格的にリングに戻った。その年の初戦は3月16日、横浜アリーナでのマイク・ベルナルド戦だった。
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南アフリカのプロボクサーだったベルナルドは、1995年3月のK-1グランプリで初来日。初戦でフグをKOで倒し、その強烈なパンチから"剛腕"という愛称がついた。翌年のグランプリではフグに敗れたが、決勝まで進出。一気に脚光を浴び、リング外ではカミソリのメーカー「シック」のテレビCMに起用され、「キレテナイ!」のセリフが大人気に。茶目っ気あふれる笑顔で「ベルちゃん」と呼ばれ親しまれた。
ベルナルドは、ピーター・アーツ、アーネスト・ホースト、フグと一緒に「K-1四天王」に数えられ、興行の看板選手になった。多くの名勝負を演じたのち、2006年に現役を引退。その後のキャリアも注目されていたが......2012年2月14日に42歳で急逝した。
佐竹にとって、ベルナルドとの初対決は壮絶な結果になった。1ラウンド、佐竹はローキックで牽制するが、強烈な圧力で突進されて左フックでダウン。さらに右アッパーで2度目のダウンを喫したが、なんとか耐えきった。
2ラウンドも圧をかけられた佐竹だが、左の蹴りをベルナルドの顔面に入れてグラつかせ、左右のパンチ連打で追い詰める。ベルナルドも左右のパンチで反撃し、壮絶な打ち合いに超満員の横浜アリーナが沸騰した。
しかし最後は、ベルナルドが右フックでダウンを奪い、レフェリーが試合を止めた。佐竹はこう振り返る。
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「その試合も、記憶が飛んでるんですよね。最初はローキックが思いどおりに入って『いける』と思ったことや、最初のダウンは覚えているんですが、あとは何も覚えてません。2ラウンドで入れた蹴りも記憶になくて......。『空手バカ一代』で大山(倍達)総裁が無意識で攻撃するシーンがあるんですけど、あれと同じです。
やっぱりベルナルドのパンチ力は半端じゃなかったですね。ヘビー級ボクサーのパンチはすごいですよ。ベルナルドであれぐらいすごいなら、マイク・タイソンはどんだけすごいんだと思いましたよ」
【人気絶頂時にジャパングランプリがスタート】
「K-1四天王」全員と戦った佐竹は、それぞれの印象について、愛好するアクションゲームシリーズ『モンスターハンター』の武器で例えた。
「アーツは、遠い距離からガンガンくるから『ガンランス』ですね。ホーストは、ガードの能力が高くてテクニック抜群なので『ランス』。アンディは、短い剣を操るようにちょこちょこ当ててきたので『双剣』。ベルナルドは、言うまでもなく『ハンマー』です。こうして振り返ると、みんな強いのは当然ですが、それぞれ個性がありましたね」
K-1復帰後2連敗となったが、6月7日にカークウッド・ウォーカー(イギリス)に判定で勝利し、2年3カ月ぶりの白星をつかんだ。ただ、体調は思わしくなかった。
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「手足がしびれることが多くて、『これは脳梗塞かも』って心配になって病院へ行ったら、お医者さんが『首の骨が逆に曲がっています』と。長年の戦いで首の骨が曲がっていたことがわかりました。しびれの原因はそれだったんですけど、『"職業病"だから仕方ないな』と腹をくくりました」
7月20日、人気絶頂だったK-1は初めてドーム興行に打って出た。会場はナゴヤドーム。「K-1 DREAM97」と銘打たれたイベントで、佐竹は日本最強戦士を決める8人参加のトーナメント「ジャパングランプリ」に出場した。
1回戦、清原定一を1ラウンドTKOで破り、準決勝の阿部修司も判定で完勝。決勝は同じ正道会館の鈴木政司を4ラウンドTKOで倒して優勝し、日本人のヘビー級ではずば抜けた実力を持つことを証明した。
「それまでめちゃくちゃ強い外国人とばかり戦っていましたから、正直に言って『日本人だけのトーナメントは楽だな』と思って出ることにしました(笑)。日本人にはそこまでの"殺傷能力"はないだろうと」
【空虚感を抱くなかで登場したフィリォ】
この日本人最強を決める「ジャパングランプリ」の成功などから、K-1は1998年秋から、日本人戦士を主役に据える「ジャパンシリーズ」をスタートさせた。日本テレビとフジテレビ、二局で放送することになり、視聴率を稼ぐ有力コンテンツとなった。ただ、佐竹は冷静に見ていた。
「ジャパングランプリを立ち上げたのは、K-1がフジテレビにコントロールされすぎてきたので、1993年の最初の大会のように、経営者側が主体のK-1をやりたかったからだと思いますよ。ただ、僕の心は冷めていました。もちろん試合が決まれば、戦いに挑むべく燃えてはいるんです。だけど、(ドン・中矢)ニールセンとかウィリー(・ウイリアムス)、リングス参戦とか、プロになってからK-1までに感じていた面白みが薄れてきてましたね。
それまでは、『苦しいことをしなくてはダメだ』という自分がいたんですが、特に復帰後は、K-1が"できあがって"しまっていて、自分が何もないところからやってきた燃え方とは違いました。テレビのゴールデンタイムとか、ドーム興行とか、人気が出るのは大事なんです。ただ、あの頃は外野からの声がうるさくなり、試合に集中できなくて......。格闘技というよりも、"見世物"感が強くなってきたように感じていました。
僕は、テレビ番組に出ればおちゃらけていたけど、リングでは常に武道と向き合っていた。真剣にいきたかったんですが、集中できなくなってきていました」
そんな空虚感を埋めてくれたのは「極真」だった。佐竹がジャパングランプリを制したナゴヤドームでは、当時の「極真会館」(松井派)で最強の外国人とうたわれた、ブラジル人のフランシスコ・フィリォが初参戦。相手はフグだった。
フィリォは極真時代にフグに勝利しており、舞台をK-1に移しての"フグのリベンジマッチ"という側面もあった。大きな注目を集めた一戦は、フィリォが右フック一撃でフグを1ラウンドKOで下す衝撃的な幕切れとなった。佐竹も、それを興味を持って見つめていた。
「空手では最強のフィリォが、果たしてK-1でどういう戦いをするのか興味がありました。すごく体幹が強い選手で、アンディもその強みを生かして倒しましたね」
ナゴヤドームで、佐竹はフィリォと同じ控室だった。こんな後日談を明かした。
「僕は、試合ごとに使ったグローブを持って帰っていたんですが、あの試合後、自分のと間違えてフィリォのグローブを持って帰ってしまったんです(笑)。今もそれを持っていますよ。ちなみに、僕自身のニールセン戦のグローブも持っているので、格闘技界の歴史に残る伝説の激レアグローブを、ふたつ持っているんですよ(笑)」
フィリォの登場で「空手復活の物語ができると思った」という佐竹。翌1998年に、自らも極真と戦う時がくる。
(つづく)
【プロフィール】
佐竹雅昭(さたけ・まさあき)
1965年8月17日生まれ、大阪府吹田市出身。中学時代に空手家を志し、高校入学と同時に正道会館に入門。大学時代から全日本空手道選手権を通算4度制覇。ヨーロッパ全土、タイ、オーストラリア、アメリカへ武者修行し、そこで世界各国の格闘技、武術を学ぶ。1993年、格闘技イベント「K-1」の旗揚げに関わり、選手としても活躍する傍ら、映画やテレビ・ラジオのバラエティ番組などでも活動。2003年に「総合打撃道」という新武道を掲げ、京都府京都市に佐竹道場を構え総長を務める。2007年、京都の企業・会社・医院など、経営者を対象に「平成武師道」という人間活動学塾を立ち上げ、各地で講演を行なう。