
1966年(昭和41年)という年は、日本の航空史において「メモリアルイヤー」として記憶されています。ただし最悪の意味で。プロペラ機がジェット機に切り替わる頃だったこの年、たった1年で5機の航空機が墜落したのです。(アーカイブマネジメント部 疋田 智)
最初の悲劇は東京湾ご存じでしょうか、昭和41年・ひのえうまのこの年、日本では飛行機が5機落ち、376人が犠牲となりました。これは同年世界全体の航空機事故死者の約半数に相当しました。
最初の事故は2月4日、千歳発羽田行き全日空AN60便(B727型機)が東京湾に墜落し、乗客乗員133名全員が死亡しました。
事故の直接原因は不明ですが、機長が計器飛行ルートを放棄して有視界飛行に切り替えたことと、ジェット機への慣れ不足などが指摘されました。
この事故を契機に、ブラックボックスの搭載義務化や有視界飛行の制限が導入され、航空制度改革が進んだのです。
次にカナダ機が墜落そのちょうど1か月後の3月4日、羽田空港での濃霧の中、香港発のカナダ太平洋航空CP402便(DC-8型機)が着陸に失敗し、護岸に衝突して炎上。64名が犠牲となりました。
事故当時、滑走路のILS(計器着陸装置)は一部使用不可で、手動操作に頼っていた事が事故の一因とされました。濃霧の中の手動操作でパイロットが操縦ミスをした、というのです。
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次の悲劇は翌3月5日のこと。しかも前日事故で羽田空港で着陸できず福岡に回された旅客機によるものでした。
英国海外航空BA911便(ボーイング707型)は、改めて向かった羽田から香港に向かって再出発しましたが、富士山上空で空中分解。飛行機は墜落し、乗客乗員124名全員が死亡しました。
事故原因は富士山の「山岳波」と呼ばれる強烈な気流に巻き込まれたことによる尾翼の破壊だと見られています。山に近いルートを選択した機長の判断は「富士山を間近にご覧下さい」という乗客へのサービス精神からだったのではないかと推測されています。
4機目は訓練機、そして5機目…夏には8月26日、羽田空港で日本航空の訓練機コンベア880が離陸訓練中に墜落し、職員5名が死亡しました。離陸直後の片エンジン停止を想定した訓練中に操縦ミスが重なったとされています。
さらに11月13日、全日空AN533便(YS-11型機)が松山空港沖に墜落し、50名全員が死亡。新婚旅行中のカップル12組を含む乗客が全員犠牲となったのです。
事故原因は不明のままです。当時ブラックボックスが未搭載だったことが原因究明の壁となっています。また遺体捜索中のヘリが空中衝突して4人が死亡する二次事故も発生しています。
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これら一連の事故は、日本におけるジェット旅客機時代の未成熟さ、操縦技術の課題、そして気象・通信・機体構造などのリスクを浮き彫りにしたといえます。特にBA911(3機目)の空中分解事故を契機に、航空機設計自体も、剛性よりも柔軟性重視の構造へと転換したそうです。
現在、航空機事故で死亡する確率は0.0009%とされ、飛行機は最も安全な乗り物(クルマよりも自転車よりも電車よりも!)といわれています。しかし、この年にはそんなことは到底言えませんでした。
現在の安全性の陰には、こうした1966年の5連続墜落事故のような犠牲があるのです。