モンゴル抑留の記憶、今も鮮明に=107歳、両陛下の訪問見守る―富山

9

2025年07月05日 07:31  時事通信社

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

時事通信社

終戦後、旧ソ連に抑留され、モンゴルなどで強制労働させられた体験を語る山田秀三さん=5月15日、富山県南砺市
 天皇、皇后両陛下は7月6〜13日、モンゴルを公式訪問される。8日には、旧ソ連の捕虜になり、モンゴルで抑留中に亡くなった日本人の慰霊碑に供花する。全国強制抑留者協会の会長を務める富山県南砺市の山田秀三さん(107)は、モンゴルでの抑留経験を今も鮮明に覚えており、「水も食料もなく、想像を絶する経験だった」と振り返る。異国の地で苦難に耐え、生き抜いた山田さんは、両陛下の訪問を自宅から静かに見守る。

 23歳だった1941年7月、召集令状が届いた。妻と結婚してから半年後のことだった。旧満州(中国東北部)に派遣され、飛行場で航空燃料を警備する任務などに従事した。旧満州にいた時、長男の誕生を知らされたが、生後3カ月で亡くなり、一度も顔を見ることができなかった。

 終戦は大連近くの飛行場で迎えた。「戦争が終わったので家に帰れる」と思ったが、旧ソ連の捕虜となり、過酷な強制労働を強いられた。45年9月から約3カ月間、旧満州の石炭火力発電所の解体作業に従事。その後、汽車や自動車に乗せられ、12月にモンゴルに入った。道中のハルビン駅では、逃げだそうとした若い兵士3人が山田さんの目の前で銃殺された。

 モンゴルでは、最初に草原の中にある穴蔵で暮らし、46年4月に首都ウランバートル近くにある収容所へ移った。同国では寒さに耐え続けた。夜になると氷点下30度にもなり、7月でも動物のふんを燃料としたストーブをたく必要があった。何十キロも離れている凍った川から、水を調達するような生活が続いた。山田さんは「今の日本人には考えられない生活だ」と語る。

 47年11月、日本に引き揚げた。それ以降、抑留の記憶継承と、犠牲者の慰霊に生涯を懸けて取り組んでいる。2005年には、山田さんが中心となり、富山県高岡市に県内出身の抑留死没者の名前を刻んだ慰霊碑を設置。9月の慰霊祭に毎年参列してきた。

 山田さんは抑留中、「俺は駄目や」と前の晩に言っていた人が翌日亡くなるのを目の当たりにし、自分は「絶対帰る」との気力を決してなくさなかった。自分に苦難をもたらした戦争を今も憎んでいる。ロシアのウクライナ侵攻、パレスチナ自治区ガザを巡る情勢について、「戦争はしたらいかん」と万感の思いを込めて訴える。 

このニュースに関するつぶやき

  • この記事だと、ソ連の仕業だと解らない若い人が多いかも。
    • イイネ!2
    • コメント 0件

つぶやき一覧へ(8件)

前日のランキングへ

ニュース設定