
戦後80年プロジェクト「つなぐ、つながる」です。飛行兵を養成する機関「予科練」は、当時の子どもたちの憧れの的でしたが、多くの予科練出身者が特攻で戦死しました。予科練に子どもたちを導いたのは、学校でした。
小林昭三さん(95)。予科練に志願し合格、1944年の冬に入隊しました。予科練とは、海軍の飛行兵を養成する機関です。
小林昭三さん
「当時、予科練受かるってことは、本当に誇ってもいい」
飛行兵の養成を急ぐ軍の意向をくんで、学校は盛んに予科練への志願を勧めました。
小林昭三さん
「校長さんとか、そういう人は喜んだ。学校としても、政府で勧めるじゃない、『予科練行け』とか」
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小林さんが入隊した時、爆弾を抱えて突っ込む「特攻」は既に始まっていました。学校は命を失う可能性があると知りながら、予科練に生徒を送り出しました。
実は、全国の旧制中学校には「予科練に何人志願させろ」というノルマが課せられたことがありました。これが生んだ悲劇があります。
鈴木忠熙さん(当時15)。愛知県立旭丘高校の前身・愛知一中の生徒でした。
当時、愛知一中には47人のノルマがありましたが、生徒の関心が低く、学校は講堂に忠熙さんら700人を集めます。そして、校長や教師、軍の将校が志願を迫ったと卒業生が書き残しています。
教師の発言
「愛国を論じるのなら、行動においても示さねばならん」
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刺激を受けた生徒たちは異常な興奮状態に陥り、ほぼ全員が志願を決意したといいます。忠熙さんも志願し、予科練に合格しました。
しかし…
「忠熙は合格通知を手にして、少し顔いろを変えました。“しまった”」
弟の隆充さん(89)は…。
鈴木忠煕さんの弟 隆充さん
「先生も軍の方からのプレッシャーで、ものすごく勧めたんじゃないかと。みんな燃え上がったと思う。燃やす方も本気だったと」
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忠熙さんはその後、出撃して戦死しました。
一方の小林さん。結局、出撃せずに終戦を迎えました。
小林昭三さん
「『よく帰ってきてくれたね』と両親は言いました。(親から)どんな言葉をかけられても、もう頭がおかしくなっているから、反応がなかった」
戦後、教師になった小林さん。当時の学校をこう批判します。
小林昭三さん
「戦争中は自由がない。反権威とか批判的な思想というのは生まれてこない。戦争はだめです、本当に」