子どもたちの憧れ「予科練」特攻などで多くの戦死者 導いたのは学校「愛国を論じるなら行動で示せ」

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2025年09月30日 12:45  TBS NEWS DIG

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戦後80年プロジェクト「つなぐ、つながる」です。飛行兵を養成する機関「予科練」は、当時の子どもたちの憧れの的でしたが、多くの予科練出身者が特攻で戦死しました。予科練に子どもたちを導いたのは、学校でした。

小林昭三さん(95)。予科練に志願し合格、1944年の冬に入隊しました。予科練とは、海軍の飛行兵を養成する機関です。

小林昭三さん
「当時、予科練受かるってことは、本当に誇ってもいい」

飛行兵の養成を急ぐ軍の意向をくんで、学校は盛んに予科練への志願を勧めました。

小林昭三さん
「校長さんとか、そういう人は喜んだ。学校としても、政府で勧めるじゃない、『予科練行け』とか」

小林さんが入隊した時、爆弾を抱えて突っ込む「特攻」は既に始まっていました。学校は命を失う可能性があると知りながら、予科練に生徒を送り出しました。

実は、全国の旧制中学校には「予科練に何人志願させろ」というノルマが課せられたことがありました。これが生んだ悲劇があります。

鈴木忠熙さん(当時15)。愛知県立旭丘高校の前身・愛知一中の生徒でした。

当時、愛知一中には47人のノルマがありましたが、生徒の関心が低く、学校は講堂に忠熙さんら700人を集めます。そして、校長や教師、軍の将校が志願を迫ったと卒業生が書き残しています。

教師の発言
「愛国を論じるのなら、行動においても示さねばならん」

刺激を受けた生徒たちは異常な興奮状態に陥り、ほぼ全員が志願を決意したといいます。忠熙さんも志願し、予科練に合格しました。

しかし…

「忠熙は合格通知を手にして、少し顔いろを変えました。“しまった”」

弟の隆充さん(89)は…。

鈴木忠煕さんの弟 隆充さん
「先生も軍の方からのプレッシャーで、ものすごく勧めたんじゃないかと。みんな燃え上がったと思う。燃やす方も本気だったと」

忠熙さんはその後、出撃して戦死しました。

一方の小林さん。結局、出撃せずに終戦を迎えました。

小林昭三さん
「『よく帰ってきてくれたね』と両親は言いました。(親から)どんな言葉をかけられても、もう頭がおかしくなっているから、反応がなかった」

戦後、教師になった小林さん。当時の学校をこう批判します。

小林昭三さん
「戦争中は自由がない。反権威とか批判的な思想というのは生まれてこない。戦争はだめです、本当に」

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  • 当時はアメリカでも徴兵があって拒否すれば針のむしろだったらしいな(ハクソーリッジより)��������
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