
シンガポールのランドマーク的ホテル「マリーナベイサンズ」(3棟のビルの上に船が載っているやつ。前編の写真参照)の屋上のインフィニティプールからの眺め。2022年の初訪星の時に撮った写真。当時は宿泊費がまだめちゃくちゃ安く、奇跡的に泊まることができた。
連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第158話
「Duke-NUSに、私のポジションを作れないか?」。シンガポールの感染症研究の大物に提案した申し出は、果たして......。
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【続・そして、「新しいチャレンジ」のはじまり】
――はじまりは、2023年2月。2度目の訪星のときのことだった。
初めてDuke-NUSを訪問し、リンファの元を訪れて、一緒にランチに出かけた。「プラナカン」と呼ばれる、中国料理とマレー料理が混ざった、シンガポールの伝統料理の店だった。
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たわいもない話をしながら食事を終えて、レストランから彼の研究室に歩いて向かっているとき、唐突にリンファが言った。
「――で、お前はシンガポールに何をしに来たんだ? 私に何を期待しているんだ?」
それで私は慌てて、どんな研究を計画しているのか、これから何をしたいと考えているのか、そういうことを思いつくままに歩きながら早口で話した。常夏のシンガポールは2月でも暑い。こんなアピールを英語でこなした経験はなかったが、額に汗を滲ませながら、拙い英語で、体当たりでそれを伝えた。
そしてその後に、私はダメ元で、「......というわけで、これからそういう研究を進めるために、このDuke-NUSに、私のポジションを作ってもらったりすることはできないものだろうか?」と付け加えてみたのだった。
今にして思えば、ほぼ初対面の大御所を相手に、よくもまあそんな啖呵を切ったものだと思う。すると彼は、まんざらでもなさそうに「ふむ」とひと呼吸おいて、「ギャビンと相談してみよう」とだけ答えた。
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それからの数日間、私は毎日Duke-NUSを訪れた。その感染症部門に所属するほぼすべての研究室主宰者たちとの個別面談が組まれていたからだ。私はそれを、予定通りに毎日こなした。ある日の夜には、感染症部門の研究室主宰者ほぼ全員が参加する、フレンチレストランでの会食に招かれた。
そして最終日前日の朝に、私の講演が予定されていた。そのときにはほとんどすべての研究員たちの顔となりを知っていたので、それほどの緊張を覚えることもなく、スムーズに講演を終えることができた。それはとても好評で、たくさんの質問と賞賛を受けた。
そこにたしかな手応えがあることを、そこで改めて実感することができた。そして、まるですべてが仕組まれていたかのように、その日の午後に、Duke-NUSの感染症部門のスタッフ定例会議が開かれた。
私はもちろんそれに参加していないが、あとで聞いた話だと、そこでリンファが、Duke-NUSにおける私のポジション(職)の可能性について提案をしてくれて、定例会議の参加メンバーたちは、満場一致でそれを支持してくれたという。
翌日、日本に帰国する日の朝。私はギャビンに呼ばれてDuke-NUSを訪れた。そこで、この件のこれからの方針を詰める場が設けられた。思いつきのひと言が、まさかこんなにとんとん拍子に進むとは――嬉しさと驚きが入り混じる感情を胸に、私は帰国の途についた。
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――しかし、この話はそれから一向に進まなかった。どこまで話が進んでいるのか、どこで何が滞っているのかもわからない。しびれを切らしてたまにギャビンにメールを送っても、「いやあ、まだ人事部から返事がなくてねえ」というような、のらりくらりとした塩対応。
結局、あのときはその場のノリで盛り上がっただけで、やはり実現は難しかったのか――そんな風に半ば諦めかけていた、その訪星から1年以上が過ぎた2024年の3月。ギャビンから突然、「ちょっとZoomで話したい」と連絡があった。
そのときの私は、オーストリア・ウィーンへの出張を控えながら、新潟で開催されていた学会に参加していて、ちょうど昼食のために外に出ていた(97話)。しかし、静かに話せる場所がなかなか見つからず、近くのレストランのテラス席に慌てて駆け込み、AirPodsを耳にねじ込んでオンラインミーティングを始めた。そこで私はギャビンから、その年の11月にシンガポールで開催される国際学会での基調講演の依頼を受け、客員教授の話の進捗を告げられたのだった。
前者については、前編で紹介した通り。後者については、それからメールベースで少しずつ話を進めて、11月の訪問のときに最後の詰めをしよう、ということになっていた。
【チャレンジの意味合い】
かくして私は、熊本大学、イギリス・グラスゴー大学に加えて、シンガポールでも客員教授という肩書を得ることになった。
ここには、私にとってふたつの意味合いがある。
ひとつ目は、「アジアの連帯」である。日本だけで研究をしていると、どうしても無意識のうちに閉鎖的になり、自分の研究室や国内のコミュニティの中だけで物事が完結してしまいがちになる。
幸いにして私の研究室にはたくさんの留学生たちがいて、日々活発に研究活動に勤しんでいる(33話)。そのおかげで、あまり類を見ない国際的な生態系が醸成されていて、そこに妙な閉塞感はないと思っている。
それに加えて私は、この連載コラムでも折に触れて紹介してきたように、2022年11月の初訪星以来、いろいろな海外活動を経験してきた。そのおかげで、私自身のマインドも、2年前に比べてだいぶ国際化してきている実感がある。
日本を拠点に、世界と「たたかう」――。この連載コラムの27話でも述べたように、それこそまさに私が意図していたことだ。そしてそのマインドの先にある次のステップこそ、76話でも触れた「アジアの連帯」だと私は考えている。
そしてふたつ目はやはり、「チャレンジを続けたい」「新しいことがしたい!」という私のモチベーションに尽きる。この2024年11月の滞在でも、いろいろな人と、その翌年から始まるはずのポジションのこと、シンガポールで始めたいことについて話をした。
最後の夜には、オーチャード地区(東京でいう銀座みたいなところなのだろうか?)で、とてもおいしい中華料理と赤ワインを堪能した。半袖姿で眺めるクリスマスイルミネーションは、私の人生でおそらく初めての経験だった。
私が想像していた以上に、シンガポールは私に対してウェルカムで、そこにはいろいろな可能性が広がっていることを体感した。常夏の気候のせいもあるのか、シンガポールはそこにいるだけで、そして研究の話をしているだけで、なぜかムラムラと研究に対するやる気が湧いてくる。
前回の訪星でもそうだったのだが、今回もそれをひしひしと感じることができた。それがなぜなのかはわからない。「なにか新しいことにチャレンジしている」ということに無意識に興奮しているからなのかもしれない。いずれにせよ、少なくともそれは私にとって、とてもポジティブな要素であることは言うまでもない。
このコラムをまとめている2025年12月現在でも、このシンガポールでの「チャレンジ」がどこにどう着地するのかはまだわからない。ただ、これは人生の中で何度も巡ってくるようなチャンスではないだろう。その行方の一端だけでも、これからも折に触れて、この連載コラムという場で紹介していけたらと思っている。
......まあ、2年以上も『週プレNEWS』で連載を続けているということ自体、私にとっては大きな「チャレンジ」のひとつでもあるのだけど。
文・写真/佐藤 佳
