【宇野常寛氏インタビュー】『庭の話』『ラーメンと瞑想』から、われわれの「場所」の現在を考える「偶然に自分を刺激してくれる言葉に出会える場所が大事なんです」

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2026年01月06日 08:50  週プレNEWS

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2025年8月1日にオープンした「宇野書店」で取材に応じてくれた批評家・宇野常寛氏


2025年8月1日にオープンした「宇野書店」で取材に応じてくれた批評家・宇野常寛氏

批評家・宇野常寛(うの・つねひろ)氏の近著『ラーメンと瞑想』(ホーム社)、『庭の話』(講談社)は一見遠いように見えて、ひとつのテーマを異なるアプローチで表現した2冊だ。

ひとつのテーマとは、われわれがいる「場所」。日々過ごしている仕事場、食事の場所、飲み会......。それぞれの場所で、自分はどう見られたいのか? と思ってしまう。

そのオブセッションからの「解放」と、2025年8月にオープンした宇野氏プロデュースの「宇野書店」について聞いた。

【写真】宇野常寛氏プロデュースの「宇野書店」

* * *

【「宇野書店」という場所】

――どういう人が「宇野書店」を訪れていますか?

宇野常寛(以下、宇野) 開店前は、僕の読者で中心的な30代から40代が多いと考えていました。しかし蓋を開けてみると、若い人、特に学生が多いですね。

たぶん近所に大学が多いことが影響していると思います。あと、休みの日には家族連れが多いです。そんな光景が見られるのも、うれしいことです。

――本のセレクトは思想系、社会学系が中心でしょうか。岩波少年文庫の棚もありますね。宇野さんの著書『庭の話』(講談社)に登場するラドヤード・キップリングの『少年キム』もあります。

宇野 岩波少年文庫は取次から入れられる限りのものを揃えました。これは僕のちょっとした「夢」の実現ですね。僕が子どもの頃、住んだことのある地方都市では、近所には満足できる書店も図書館もないケースがあって......。なので、月に一度やってくる移動図書館を心待ちにしていました。


「宇野書店」は2025年8月1日にオープン。思想、人文、社会のジャンルを中心に約6000冊が揃う。東京都豊島区北大塚1-15-5 東邦レオ東京支社ビル2階 平日10〜21時、土日・祝日12〜20時

これは東京育ちの人にはわかってもらえないかもしれないですが、インターネットがない時代の地方の読書環境は今と比べると悲惨なもので、大学生の頃、関西にいたときに古本のウェブ通販サイトが登場したんですね。

このときの喜びを話しても、なかなか東京育ちの人は理解してくれない。そんな事情もあって、いつか書店をやってみたいとずっと思っていました。


JR山手線の大塚駅から徒歩数分の場所にある「宇野書店」

――「宇野書店」は街の書店であって、それ以外の機能もある場所になっているという印象です。寝転んで本を読んでいる人もいました。

宇野 「宇野書店」は公共空間だと思っています。よく誤解している人がいるけれど、公共空間は共同体を育むための場所ではなくて、人間がどんな共同体に所属していようがしまいが関係なく許容される場所です。

ボス猿みたいな共同体のリーダーがいて、彼に忖度して居場所を確保するような共同体なんて、いくらあってもイジメしか生まない。ほかの人間ではなく、本という「事物」とコミュニケーションを取る場所、それが僕の考える公共空間としての「宇野書店」です。


「宇野書店」には、学生や若い人が多く訪れている。休みの日には家族連れの姿も

そして「宇野書店」は街の本屋であると同時に、このオフィスビルの共用施設でもあります。コロナ禍以降、オフィスのあり方が完全に問い直されていると思います。

さびしいおじさんたちは部下に威張れる場所を失いたくなくて「効率」を口実にリモートワークを批判しますが、少なくともコロナ以前と同じレベルでオフィスの存在が不可欠であるとはもはや考えられないわけです。

これからのオフィスに必要なのは、ワーカーの創造性を刺激することです。いつもと代わり映えしない社員同士の「雑談」なんかに意味はない。そうじゃなくて、死者のものも含めて、偶然に自分を刺激してくれる言葉に出会える場所が大事なんです。

同じ理由で、いわゆる「JTC」的な飲み会、「飲みニケーション」にも僕は批判的です。共同体のボスを接待してポジションを確保するゲームや、その場にいない人の悪口を共有してメンバーシップを確認するゲームになりがちです。

飲み会は要は基本的に強者のロジックですからね。さびしいおじさんたちが、自分より弱い立場の部下や後輩に威張れる場所がほしいわけでしょう?

所有される側にとっては、業務以外の時間を奪われて苦痛以外のなにものでもないし、行きたくない者にとっては地獄でしかない。さびしいおじさんたちはそれを「飲みニケーション」などと言って正当化しようとしている。最悪ですね。

僕の同年代の男性には、なんというか自己実現としての「父」になることしか生きがいのない人が多いと思うんですよね。自分の生きがいのために守るべき妻子が欲しいとか、導くべき部下や後輩が欲しいとか。

しかし、それって支配される側の妻子や部下にはたまったものじゃない。「やっぱり飲みニケーションが大事」とか言っちゃうおじさんは、こういうことが想像できないんですよね。

【『庭の話』と『ラーメンと瞑想』】

――著書『庭の話』と『ラーメンと瞑想』(ホーム社)が約半年の間隔で出版されています。硬軟でいうと『庭の話』が硬で、『ラーメンと瞑想』が軟のイメージです。内容を理解するという意味では、『庭の話』が『ラーメンと瞑想』の理解を助けてくれていると思いながら並行して読みました。

宇野 『庭の話』は批評で、『ラーメンと瞑想』は食エッセイです。連載していた時期が重なっていることもあって、メッセージは共通している部分が多いと思います。ただ僕の思想の生の部分が直接的に出ているのは『ラーメンと瞑想』の方ですね。


『庭の話』講談社 3080円(税込)


『ラーメンと瞑想』ホーム社 1980円(税込)

目の前にラーメンの丼が届いた瞬間、人間は孤独になりますよね。麺が伸びる前に食べないといけなくなるので、純粋に丼と向かい合わざるをえないですから。瞑想もある意味では似ていて、自己との対話に集中するために孤独になる。

生物的な欲求を満たすための食事としてのラーメンと、人間的な欲求を観察し相対化する行為である瞑想が、以外なところで通じ合うわけです。

場所と自己との関係で言うなら、僕は好きなものがけっこうたくさんあるタイプで、たとえば虫や鳥などの小動物や草花が好きだったりする。もともと好きだった虫への関心から鳥や植物へと関心が広がっていった感じですね。

こうなってくると、世界を見る目が変わるわけです。虫や鳥を探しながら、街を歩くようになると、なんというか人間の目だけではなく、虫や鳥の目をもって世界を見るようになる......。こういう体験が僕は大切だと思うんです。

自宅から半径500メートルの世界を複数の目で見られない人間が、どんなに遠くに旅しても何も得られないと僕は思うんです。

『庭の話』はこうした複数の目を人間に与える環境について論じました。『ラーメンと瞑想』はその実践編と言うか、日々の暮らしの中でどう事物に向き合い、自己の心身を変化させるかというテーマを扱っています。

【なんでもない自分になること】

――『ラーメンと瞑想』には、編集者のTさんが登場し、ふたりの掛け合いが本書のテーマを深めていくという構造になっています。

宇野 なんでもない自分になれるというのは、「自分の社会的なポジションを考えない」ということですが、「自分のことを考えない」ということとは違うことだと考えています。

僕たちが瞑想しているのは、政治的、経済的に価値がないと言われているような人のいない公園や日当たりの悪いベンチ、誰も使わないマンションの共有スペースであったりします。

そういった場所で、共同体からの承認とか、市場からの評価とか、そういったものを一旦横に置く。そんな時間を大切にしているんです。僕とTさんの対話は、そんな時間だからこそ生まれたものだと思います。

――『ラーメンと瞑想』にTさんが〈宇野化〉しているのではないか? という議論を交わす場面があります。Tさんに変化が現れるというか。以下に引用します。

「少し前から薄々感じていたのですが......Tさんって最近服装がちょっと僕みたいになっていますよね。〈宇野化〉しているというか」

 (中略)

「そんなことはないです」

Tは語気を強めて否定した。

「いや、ありますよ。同じような格好をした中年男性が二人でつるんでいると思われていますよ。Tさん、格好が〈宇野化〉しいますよ」

「していません」

――この文章は、宇野さんとTさんが「無位の真人」「人間一般」になっていた、と続きます。「無位の真人」という存在は自分がどう見えているかを考えなくなることなのでしょうか。

宇野 これは実際にそういうやりとりがあったのですが、本全体を象徴するエピソードだと思います。要するに、共同体からの承認や市場からの評価を気にしない時間というのは「何者でもない」時間なんです。

そして、それは繰り返し述べるように決して不幸なことじゃない。要するに、どんな共同体のメンバーシップを持つかとか、市場からの値付けがいくらかとか、そういったこととは、無関係に許容されること。これが今の世界に不足していると思います。


「僕自身、カフェで仕事をすることが多いのは、何者でもなくなるからです。知らない人に囲まれながら自分の仕事をしている」と話す宇野氏

SNSもそうですし、実空間もそうですが「何者かになる」ことに囚われすぎていると思うんです。SNSではあまり知力の高くない人が、自分はバカじゃないと自分に証明するために一年中識者のコメントやネットニュースに毒づいているし、タイムラインの潮目を読んで叩きやすいものを叩いて、自分を「まとも」で「賢い」側に置こうとする。

実空間でも「さびしいおじさん」が自分がちやほやされる場所を手放したくなくて飲みニケーションを続けようとしている。

でも僕はそれって本人も周囲の人も不幸になるだけだと思う。いや、人間から「何者かになりたい」といった欲望が消えることはないでしょうが、同じくらい「何者でもない」自己を許容してもらいたいという欲望も強く存在している。

だから僕は実践としての「宇野書店」もそうなんですが、共同体からの承認や市場からの評価と無関係に、「何者か」を問わず訪れた人を許容して、豊かな事物に触れてもらえる場所をつくっていきたいと思います。

●宇野常寛(うの・つねひろ) 
1978年生まれ。批評家。批評誌〈PLANETS〉〈モノノメ〉編集長。著書に『遅いインターネット』(幻冬舎)、『母性のディストピア』(集英社)、石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』(太田出版)、猪子寿之との共著『人類を前に進めたいーチームラボと境界のない世界』(PLANETS)など多数。明治大学特別招聘教授。

インタビュー/kotoba編集部 撮影/丸谷嘉長

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