
<寺尾で候>
日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。
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年が明けたこの時期のプロ野球は、特にルーキーたちがスポットを浴びる。日刊スポーツ(4日付大阪版)で目に留まった虎の新人は、ドラフト4位投手の早瀬朔(神村学園)の自主トレ公開のニュースだ。
球団からリリースされた内野手出身で担当スカウトの前田忠節の「打者に向かっていく投球スタイルで、150キロに迫る本格派右腕。体力面・技術面のさらなる向上で、プロ野球の世界でも通用する高い能力をもった投手」というリポートを読み返した。
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ルーキー早瀬は、地元の兵庫・丹波市で「自分が活躍して名前を広めたい」と地域貢献の抱負を口にした。拙者が注目したのは、丹波市からのプロ野球選手が、あのなつかしい佐々木恭介以来だったことだ。
1971年(昭46)にドラフト1位で近鉄入り。強打の外野手で、78年に自身初タイトルになった首位打者(打率3割5分4厘)を手中に収めた。球団創設30周年の79年は、監督として西本幸雄が率いた初優勝に貢献した。
その佐々木と会ったのは、昨年末だ。いつも姿勢が良く、視線をそらさない。久しぶりに顔を合わせたが、真っすぐなイメージは変わらなかった。後に近鉄監督の座に就いたが、実は社会人野球・新日鉄広畑から阪神に入団していた可能性もあった。
「わたしは阪神からドラフト2位で指名すると約束されていたんです。ヤクルトも熱心だったし、ドラフト前には会社に10球団ぐらいがあいさつに来てくれていた。もともと関西出身だったから阪神さんに『お世話になります』と返事もしていたんですよ」
佐々木が生まれ育った兵庫県氷上郡青垣町は、後で
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現在の丹波市になった。実家は理髪店で、いつも野球中継が店に流れていた。公立の柏原高から、新日鉄広畑に進んだ後、71年に出場した都市対抗で丸善石油を下して優勝する。
その大会では、最優秀選手の「橋戸賞」に輝き、一塁手としてベストナイン賞を受賞。プロからアプローチを受けるバッターに育った。佐々木は「阪神がくるのかと思ったら、まさかの近鉄ですから、人生はわかりません」と苦笑した。
その年の阪神ドラフトは、1位がサウスポーの山本和行(亜大)、2位が早大出身の中村勝広だった。近鉄でプレーした佐々木だが、ドラフト同期生の中村が阪神監督だった91年、92年に打撃コーチで招請されてタテジマのユニホームに袖を通すのだった。
特に92年は、新庄剛志、亀山努の人気選手が出現して大フィーバーした。それでも投手力は群を抜いたが、なかなか得点力は上がらなかった。佐々木は投高打低だった阪神が長期低迷した“暗黒時代”のはざまで苦労した1人でもあったのだ。
現役時代の79年は、広島との日本シリーズで起きた伝説のドラマ「江夏の21球」にかかわった。近鉄監督として臨んだ95年ドラフトで重複指名を受けた福留孝介(PL学園)の交渉権を引きあてて「ヨッシャー!」と叫んだことから“ヨッシャー監督”の異名をとった。
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人は教えられる人によって変わる。プロの世界でも指導者によって明暗を分けたアスリートに数多く触れてきた。佐々木恭介は「わたしの野球人生のすべてです」という名将西本によって作られた。また福留が“恩師”といってはばからないのは、指導力のある佐々木の人柄だろう。
佐々木は名コーチだったと思う。プロの門をたたき、これからはばたく“金の卵”は、いかなる指導者と巡り合うのだろう。実際は2月のキャンプからになるが、新人が始動したニュースに触れながら、そんな運命の出会いもキャッチしたい。(敬称略)
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