選挙カーとクマと競馬/島田明宏

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2026年01月29日 21:00  netkeiba

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▲作家の島田明宏さん
【島田明宏(作家)=コラム『熱視点』】

 今週火曜日、1月27日に衆院選が公示され、私の嫌いな選挙カーが騒ぎ立てる日々が始まった。毎回、早々に期日前投票を済ませてしまう私のような有権者にとっては騒音公害以外の何物でもないのだが、名前の連呼に効果があると妄信している彼らに変化を期待することはできないので、私が我慢するなり、静かなところに避難するしかない。

 さて、どこに避難しようか。ぱっと浮かんだのは旭川だ。去年の夏、墓参りのついでに、エゾヒグマのすなすけを見ようと旭山動物園に行ってきた。が、旭川も選挙カーでやかましいかもしれないし、雪に慣れた道民でさえ往生するほどのドカ雪に見舞われたこのタイミングは避けるべきか。

 私は、人間の生活圏に入ってくるクマの駆除には賛成している。それなのに、すなすけを可愛いと思ってしまうのはおかしい……のだろうか。人の命より尊いものはない。しかし、可愛いものは可愛い。どちらも私にとっては真理である。

 以前、本稿にも書いたように、これは競馬の存在意義と、引退競走馬のその後の問題に通じるところが多い。処分するという現実があるから、競馬は産業として回っているわけだし、競馬があるから、多くの人に愛されるサラブレッドが誕生しつづける。が、処分の内実を知ると、悲しくなる。

 この「悲しい」という部分だけを取り上げ、競馬なんてなくなればいい、と声を上げる人があとを絶たない。これは、消費税が家計を圧迫するから廃止すべきだ、と叫ぶことにも似ている。家計にだけ着目し、消費税による増収ぶんが社会保障に回されていることを無視しているわけだ。

 では、どうすればいいのか。私は「悲しいことはわかっている」と、人に訊かれたら答えるようにしている。処分される馬を減らす努力や工夫はもちろん必要だが、それは「救う」ことではなく、競馬という産業と、人と馬との有史以来のつながりという文化の中身を少し変えることだ、と考えている。

 競馬があるから、人が馬の体を綺麗に洗ったり、糞尿を片づけたり、美味しい食事を与えたりしているのだし、馬づくりや、馬を育てることを生業としている人もたくさんいる。

 国家にとっては、米や野菜づくりと同じ農業である。

 競馬を楽しいと思うことも、馬の処分を悲しいと思うことも、エゾヒグマの例と同じく、どちらも私にとっては真理である。

 サラブレッドは優勝劣敗の世界だ。ディープインパクトやイクイノックスのような名馬は、突出したパフォーマンスで多くの人々の心を揺さぶってきた。が、そうした馬ほど多くのライバルたちを敗者にしてきたわけだ。だから悪なのかというと、違うに決まっている。

 人間の勉強やスポーツもそうだが、持っている能力を最大限に引き出そうとするプロセスや、その結果としてなし遂げられたことに、私たちは価値を見いだす。

 名馬は、「走り」というわかりやすい形で、素晴らしく価値のあるものを私たちに見せてくれる。だから長く心に残るのだ。

 選挙カーの騒音からここまで話がつながったわけだが、じゃあ、選挙カーも本当に必要なのかというと、私は自信を持って、否、と言える。あれはやっている者たちの自己満足に過ぎず、文化でも何でもない。選挙カーが投票行動につながる、という調査結果もあるようだが、「選挙があることぐらい、お前に言われなくてもわかっとるわい!」と言いたい人がほとんどだろう。

 今も、野党の候補者の選挙カーが仕事場の下を走り抜けて行った。国内はどこも騒がしいなら、台湾か香港に食い道楽ツアーにでも行くしかないのか。

 さて、老人から金を騙し取る特殊詐欺や強盗などを繰り返す匿名・流動型犯罪グループ、いわゆるトクリュウの背後に、暴力団が存在しているようだ、と報じられていた。昔から、「弱きを助け強きを挫く」ことが任侠の信条だったはずだが、今の暴力団は、昔の任侠とは別物なのか。

「反社」とくくられる者が、犯罪に使えるアプリを開発しているというのだから、恐ろしいというか、わけのわからない世の中になったものだ。昔から言われる「知能犯」とはまた違うような気もするし、そうした括り方自体が、世の中の流れや、犯罪の形の変化に追いつかなくなっている。

 今回はまともなことを書こうと思っていたのだが、結局また、とりとめのない話になってしまった。

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