雅子さまの「失われた26年」と男児出産の呪縛。「なんだ女か」落胆の言葉に見る男系男子継承の悲劇

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2026年03月25日 11:50  All About

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雅子さまの元外交官としての輝かしいキャリアは「お世継ぎ」という重圧の影に追いやられた。平成天皇との間に生じた軋れきや、男児出産の期待に翻弄された日々の苦しみとは?※画像:代表撮影/ロイター/アフロ
元外交官としてのキャリアを期待されながら皇室に入った雅子さま。しかし、入内後に突きつけられたのは「跡継ぎ」という過酷な使命だった。

『「平成の天皇家」と「令和の天皇家」 二つの家族はなぜ衝突したのか』(大木賢一著)では、現天皇陛下が皇太子だった当時に一家が直面した深刻な苦悩について、皇室記者として取材を続けてきた著者が伝えている。

今回は本書から一部抜粋し、当時、皇太子妃だった雅子さまが出産圧力の中で皇室での役割を見失い絶望の淵に立たされた背景にある、「平成の天皇家」との価値観の衝突を紹介する。

外国訪問を奪われた現実

雅子皇太子妃は、出産圧力から解放されることがないまま、長い時を過ごした。結婚から4年たったが子どもができず、医学的な理由もあるのではないかと取りざたされるようになった。

日本経済新聞社で長く編集委員を務めた井上亮氏は著書の中で、1997(平成9)年から「天皇家に暗雲」が漂い始めた、として、次のように書いている。

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この年になって明仁天皇が皇太子に事情を尋ねる機会があった。そして、医学的な不妊の可能性もあるのに、夫妻が周囲になんの相談もしていないことに天皇は驚いた。夫婦だけの問題ではないとして、天皇は検査と治療を受けるよう強く促した。(中略)

しかし、皇太子夫妻は不妊治療には後ろ向きで、治療はしばらくおこなわれることはなかった。

1999(平成11)年に入り、坂元(正一)御用掛の教え子で不妊治療の第一人者の堤治東大医学部教授が宮内庁病院の非常勤医に就任し、夫妻の治療が始まった。(井上亮『宮内庁長官』)
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治療の効果があったのかどうかは分からないが、この年の末に雅子皇太子妃は初めて懐妊した。しかしその兆候がメディアに知られて報じられるなどの経緯をたどり、流産した。

懐妊が至上命令とされたこの間、外国訪問は「おあずけ」のような状態で、ようやく公式訪問がかなったのは中東歴訪から8年後、愛子内親王を出産した翌年2002(平成14)年のことだった。

私にはまるでこの出来事が、出産の「ご褒美」だったように見える。しかし、生まれたのが男児でなかったことから、男児出産の圧力はこの後も続く。

26年間の皇太子妃時代の全般を通じて、外国訪問は8回。このうち、目的が「国際親善」に分類されるものは、わずかに3回だった。国際親善が最も期待されたはずの国際派皇太子妃の、悲しい現実がここにある。「失われた26年」は国にとっても大きな損失だったはずだ。

明仁天皇からの重い一言

外国に関わることを、自らの存在意義のように感じていたであろう元外交官の女性にとって、外国訪問がかなわず、出産だけを求められ続ける現実には、途方もない失望と悲しみが伴ったと思う。

また、海外を巡る美智子皇太子妃の活躍ぶりは、皇室入りする際の「皇太子妃のモデル」として雅子皇太子妃の脳裏に色濃く存在していたと考えるのが妥当だ。

結婚を申し込んだ徳仁皇太子も、母のそうした活動を「外交官の仕事に代わる重要な役割」として皇室入りの説得材料にしていたと思われる。

ところが、自分はそうではなかった。男児出産を果たさない限り、その向こうにあるはずの、あるべき皇太子妃の姿、あるべき自分の姿にたどり着けない。

雅子皇太子妃が自分の役割と存在意義を見失い、焦りと絶望の淵に追い込まれたであろうことは想像に難くない。

愛子内親王出産の際、女児と知った明仁天皇が「なんだ女か」と深く落胆する言葉を口にした、という証言を私は聞いたことがある。

もちろん、天皇制と天皇家の安泰に責任を持つ天皇の立場からすれば、皇嗣としての男児誕生を切望する気持ちは当然である。その気持ちを吐露することもあるだろう。

前出の井上亮氏は「明仁天皇は雅子妃に『次は男の子をお願いします』と言った」と書いている(井上亮『宮内庁長官』)。

男系男子継承が生む悲劇

天皇である以上、そのような気持ちを持つことは仕方ないというよりも、一つの責任感の表れだとも思う。だが、その気持ちがむき出しのまま伝わってしまえば、相手には絶望的な意味をもたらす。

男児出産は自分だけの責任なのか。努力のしようのないことを求められた雅子皇太子妃が抱いたのは、理不尽な思いだけでなく、女性として何かを辱められたような気持ちだったのではないか。

天皇も皇太子妃も、互いに想像し、理解できるはずの事情と心情が、軋轢となって互いを苦しめる。そうした事態をもたらさざるを得ない皇室の環境は、男系男子による世襲という特徴を抱えた、天皇制の仕組み自体がもっている一つの矛盾、あるいは悲劇と言った方がいいのかもしれない。

大木 賢一(おおき・けんいち)プロフィール
1967年、東京都生まれ。1990年、早稲田大学第一文学部日本史学科卒業。共同通信社入社。鳥取支局、秋田支局などに勤務し、大阪府警と警視庁で捜査一課担当。2004年から大阪府警キャップ。2006年から2008年まで社会部宮内庁担当。大阪支社、東京支社、仙台支社デスクを経て2016年から本社社会部編集委員。2024年7月からメディアセンターデジタル編成部編集委員。著書に『皇室番 黒革の手帖』(2018年、宝島社新書)、共著に『昭和天皇 最後の侍従日記』(2019年、文春新書)、『令和の胎動 天皇代替わり報道の記録』(2020年、共同通信社)。「現代ビジネス」などインターネットメディアでの執筆多数。
(文:大木 賢一)

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