戦争体験を語る翁長安子さん=9日、那覇市 太平洋戦争末期の沖縄戦で、日本軍の部隊に看護要員として動員された翁長安子さん(96)=那覇市=は苛烈な地上戦の記憶を語り継いでいる。「絶対に、二度と戦を起こしてはいけない」。間もなく戦後81年。国際情勢が緊迫化する中、力強く訴える。
1945年3月、第一高等女学校2年生だった時、永岡敬淳大尉率いる「永岡隊」に加わった。当時15歳。住んでいた真和志村(現在の那覇市)には疎開命令が出され、家族は本島北部に逃れていたが、軍国教育を受けた翁長さんは「私もお国のために役立ちたい」と思った。
壕(ごう)の中で衛生兵の指導を受け、炊事や看護などに当たった。5月末、水くみをしていると、「壕に入れ」と叫ぶ声がした。駆け込むや否や、米軍の戦車砲が撃ち込まれ、入り口にいた隊員が吹き飛んだ。追い打ちを掛けるように、火炎放射器とガス弾が襲ってきた。
壕が爆破され、岩盤が崩落した。岩の隙間に入り込んで難を逃れ、脱出しようとすると、照明弾の明かりが周囲を照らした。「ぐちゃぐちゃにやられていた。血の海だった」。ばらばらになった遺体が散乱していた。
混乱の中、崖下に落ちて意識を失った。目を覚ました時、隊の仲間の姿はなかった。背中に機銃掃射を受けていたが、痛みに耐えてはい出し、死体で埋め尽くされた川の水を飲んだ。「ここで死にたくない」。本島南部に向かった仲間を追って歩いた。日本兵にスパイ容疑を掛けられたこともあったが、約1週間後、何とか仲間と合流した。
壕に潜んでいた6月22日早朝、米軍が放送で投降を呼び掛けた。永岡隊長が告げた。「最後の掃討作戦がある。女性は投降してくれ」。戸惑う翁長さんに、隊長は「生きて、こんな戦があったと語ってくれ」と続けた。その言葉に従い、米軍の捕虜となった翌日、戦闘が終結した。
「戦争は得るものは何もない。全てが灰になるだけ」。戦後は小学校の教壇に立ち、平和教育に尽力した。卒寿を過ぎた今も、語り部として沖縄戦を伝え続ける。捕虜になったあの日、隊長はこう伝えたかったのではないかと感じている。「二度と戦争をしない日本にしてくれ」。