《東大闘争、獄中結婚、別荘で内ゲバ事件》歌手・加藤登紀子の「ただの左翼」で片付けられない凄絶半生

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2026年08月02日 11:00  週刊女性PRIME

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加藤登紀子

 SNSのタイムラインを眺めていると《〇〇さん、左翼だったなんて知りませんでした。ファンだったのに残念です》といった構文が時折流れてくる。投稿の主は実際のファンではなく“ネトウヨ”と呼ばれる匿名のアカウントで、政権に批判的な著名人を対象にしている。ある日、こんな投稿まで目にした。

加藤登紀子さん、左翼だったなんて知りませんでした。ファンとして長年応援してきたのにガッカリです》

高校時代から学生運動に没入

 これには呆れた。加藤登紀子の長年のファンなら「左翼」だった過去を知らないはずがないからだ。発言だけ聞いて狙い撃ちにしているのだろうが、60年の長い芸能生活において、彼女ほど特異な履歴を持つ存在はそういない。

 加藤登紀子は1943年、旧満州国ハルビン市に生まれた。父の加藤幸四郎は関東軍特務機関に属していた名うての人物で、戦後は一転してマーキュリーレコード(現・ユニバーサルミュージック)の部長職に就いている。父親の変節を多感な娘がどう見ていたか大方の察しはつく。

 都立駒場高校時代から学生運動に没入し、1962年、東大文科3類に入学。60年安保闘争で命を落とした樺美智子に憧れて東大を目指したというから、根っからの活動家だったのは疑いようがない。

 当初は演劇研究会に入るという左翼学生にありがちなコースを進むも、演劇から足を洗うとアマチュアシャンソンコンクールに出場する。応募書類を出したのは父親で「これを機に娘が学生運動から離れてくれたら」と思っただろうことは想像に難くない。

 1度目は4位、2度目で優勝すると、ポリドールレコードにスカウトされ、1966年5月『誰も誰も知らない』(作詞・なかにし礼/作曲・中島安敏)で歌手デビュー。2枚目のシングル『赤い風船』(作詞・水木かおる/作曲・小林亜星)が日本レコード大賞新人賞を受賞する。順風満帆なスタートに映るが、本人は当時をこう回想する。

《お金もほどほどにもらえて、ちょっとシャレてるではないかというような気持でさ……。(中略)だけど、歌うってことは身をさらしてるからね。冗談っていっても。だんだん、いい加減に歌えなくなっちゃって》(『音楽をどう生きるか〜内田裕也対談集』中村とうよう編/創樹社)

恋人が収監され、獄中結婚

 運命が変わったのは東大卒業式のときである。「振り袖で出席してほしい」という芸能誌の要請を一蹴し、卒業式ボイコット闘争に参加。ジーンズ姿で安田講堂の前に座り込む新人歌手の姿は嫌でも話題を集めたが、これを目に留めた1人の男が現れた。反帝全学連委員長の藤本敏夫である。

「集会で歌ってほしい」という藤本の要請を断りながら2人は恋に落ちる。

 出会いから半年後の1968年10月21日、藤本は1000人の手勢を率いて防衛庁を襲撃。左翼史において今も語り継がれる「国際反戦デー・防衛庁突入事件」である。拘留された藤本を想って歌ったのが、日本レコード大賞歌唱賞を受賞する『ひとり寝の子守唄』(作詞/作曲・加藤登紀子)だった。

 さらに、酔った藤本が必ず口ずさんでいた『知床旅情』(作詞/作曲・森繁久彌)をカバーすると、140万枚セールスの大ヒット。日本レコード大賞候補にノミネートされ『NHK紅白歌合戦』に初出場をはたす。しかし、本人は至ってシニカルである。

《私がもしレコード大賞をもらったら、場がシラけるのじゃないかという心配まであるわけですよ、私のなかには。いまの状態ならやっぱり尾崎紀世彦さんでなければいけないなとか》(『サンデー毎日』1972年7月30日号)

 ミリオン歌手として揺るぎない地位を築くも、翌年「防衛庁突入事件」「神田カルチェ・ラタン闘争」「アスパック阻止闘争」の3件で、公務執行妨害と凶器準備集合罪に問われていた恋人の藤本敏夫に懲役3年8か月の実刑判決が下され、1972年4月21日、中野刑務所に収監されてしまう。

 もし、加藤登紀子が令和の女性アーティストなら、周囲の関係者は必死で別れをすすめただろう。ミリオン歌手の恋人が政治犯として投獄されたとあっては、CMに起用されることはまずないし、大手企業がコンサートツアーに協賛することもありえない。しかし、彼女は獄中結婚を選択する。妊娠していたからだ。

《彼が服役中に子供が生まれてくることになってよかったと思うの。おなかが出っ張ったところを彼に見られなくてすむんだもの》(『週刊平凡』1972年6月15日号)

 1974年に藤本が出所。ようやく新婚生活が始まり「二度と非合法な活動はやらない」と夫が誓ったことで平和な日々が続くかに見えた。──が、翌年、世間を仰天させる事件を起こしてしまう。

女優としての才能も開花

 1975年6月24日、静岡県伊東市内にある加藤名義の別荘で過激派(革労協)の活動家10人が会合を行っていたところ、敵対する過激派(革マル)が急襲。1人死亡、1人重体、8人重傷という大惨事となった。結婚会見を開かなかった夫婦は事件翌日、釈明会見を開いた。前代未聞である。

《できるだけ多くの人に使ってもらおうと思って、親戚や知人に気軽に利用してもらっていました。その意味ではひじょうにうかつだったともいえます》(『週刊平凡』1975年7月10日号)

 このとき、加藤登紀子は31歳。現在のあいみょんと同じ年齢である。あいみょんが同じ境遇に立たされたら芸能活動をしばらく自粛することになろうが“お登紀さん”は、何事もなかったかのように新曲を次々と発表する。

 それどころか'80年代に入ると女優としての才能まで開花。『居酒屋兆治』(監督・降旗康男/東宝)では高倉健の妻役を熱演し、山田太一脚本のテレビドラマ『深夜にようこそ』(TBS系)で千葉真一の妻役を好演していたのは筆者の記憶にもある。

 石原裕次郎最後のシングル『わが人生に悔いなし』(作詞・なかにし礼)を作曲したのもこの時期だ。ラトビアの歌謡曲をアレンジした『百万本のバラ』(作詞・加藤登紀子/作曲・アンドレイ・ヴォズネセンスキー)のヒットで、1989年には2度目の『紅白』出場。なお、夫の藤本敏夫は2002年に58歳で鬼籍に入っている。

 伴侶を失くした後も加藤登紀子が第一線から退くことはなかった。2016年以降は『FUJI ROCK FESTIVAL』にもたびたび出演。82歳を迎えた昨年末の『ほろ酔いコンサート』には、タブレット純をゲストに招いている。

『サンデーモーニング』(TBS系)などに時折出演しては、現在の政治状況を躊躇なく指弾する論客としての顔も持つ。その都度、SNSで叩かれるのは恒例行事のようなものだ。

 あるとき《加藤登紀子はただの左翼になってしまった》といった皮肉めいた投稿を見かけた。まともに取り合うこともないと思うが、これだけは述べておきたい。

 彼女は「ただの左翼」ではない、と。

ほそだ・まさし 職を転々としたのち作家に。2020年刊行『沢村忠に真空を飛ばせた男』(新潮社)で講談社本田靖春ノンフィクション賞、2024年刊行『力道山未亡人』(小学館)で小学館ノンフィクション大賞を受賞

取材・文/細田昌志

週刊女性2026年8月11日号

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