大分・剣道部の顧問による暴行、熱中症死から17年。息子を失った両親が語る「当たり前」の尊さ

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2026年08月22日 08:50  女子SPA!

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左から剣太さんの父・英士さん、剣太さんの等身大写真、母・奈美さん
 2009年8月22日、大分県立竹田高校剣道部の主将だった工藤剣太さん(当時17歳)は、合宿明けの稽古中に倒れ、その日のうちに亡くなった。死因は、重度の熱中症、いわゆる熱射病による多臓器不全だった。

 当時、稽古場は厳しい暑さで、ほかの部員たちにも体調不良が続出していた。体調に異変が表れた後も稽古は続き、顧問から暴行を受けていたことも、部員の証言や後の裁判によって明らかになった。

 私自身、20年以上剣道を続けてきた。暑さのなかで防具を身につけ、竹刀を振り続ける苦しさも、指導者に逆らうことが難しい部活動の空気も知っている。約10年前にこの事件を知ったとき、自分も同じような状況になっていたかもしれないと感じ、剣太さんの母・奈美さんに連絡を取った。

 あれから月日が流れ、私はフリーライターとして活動を始めた。そして今回初めて、剣太さんが生まれ育ち、今も両親が暮らす大分県竹田市の自宅を訪ねた。

 子どもを失った家族は、その後をどのように生きていくのか。剣太さんの母・奈美さん、父・英士さんに話を聞いた。

◆倒れたところに「これは演技じゃろが!」とビンタ10発

 2009年8月22日、剣太さんは夏の合宿を終えたばかりだった。いちばんきつい合宿を乗り越え、両親も「これでもう大丈夫」と胸をなでおろしていた矢先の、稽古中の出来事だった。

 その日の練習が始まったのは、朝9時。剣太さんの体に異変が現れ始めたのは、昼頃のことだった。全員での打ち込みが続くなか、剣太さんだけが顧問の「合格」をもらえず、一人だけ打ち込みを課され続けていた。

「もう無理です」剣太さんは、はっきりと言った。普段、めったに弱音を吐くことのない剣太さんが助けを求めたのだから、限界はとうに超えていたはずだ。それでも、稽古は終わらなかった。相手に竹刀を払い落とされても、剣太さんは落としたことにも気づかず、そのまま構えの姿勢をとった。

 しかし顧問は、この期に及んで、剣太さんの胴を蹴った。剣太さんは自分の力では立ち上がれない状態にあった。仲間が面の上から水をかけると、一度は意識を取り戻したように見えたが、そのままふらふらと壁のほうへ歩き、額を打ちつけて倒れ額から血を流した。それでも顧問は、倒れた剣太さんにまたがり、「これは演技じゃろが! 目を開けろ!」と繰り返しながら、往復ビンタを10発程度繰り返したという。

 剣太さんがまったく動けなくなり、ようやく稽古は中断された。そこで顧問らは、剣太さんの体を冷やそうと、水をかけ、スポーツドリンクを飲ませる。だが、しばらくして剣太さんはそれを吐き戻した。もう一度飲ませても、二口ほどで、また吐いてしまう。目は白目をむき、呼びかけても、うなるような声を漏らすだけ。もはや、意識はほとんど残っていなかった。ここでようやく、顧問が救急要請を行った。

 搬送された病院で測った体温は、病院の体温計で計測できる上限の42度を振り切っていた。奈美さんいわく看護師も医者もあまり熱中症の処置に慣れていない印象をうけたという。点滴を打てば治るといわれまっていたが、急変して、剣太さんはその日のうちに亡くなった。死因は、熱射病による多臓器不全だった。

 事件後、両親は事故の4日後から自ら部員の家を一軒ずつ訪ね、証言を集めて回った。その積み重ねが実を結び、後の裁判では、県と病院の責任に加え、顧問の暴行の事実や安全配慮を著しく欠いた指導が認定されていく。

 最終的に、県が顧問個人に賠償を求める「求償権」の行使まで認められた。これは学校の部活動をめぐる事故としては極めて異例のことだ。

◆我が子を失って気づいた「当たり前」の尊さ

「いま当たり前だと思っていることの尊さを伝えたい」

 そう切り出すと、奈美さんが最初に口にしたのは、お弁当の話だった。

「お弁当を作るのはめんどくさいんよ。でもね、お弁当を作って、食べて帰ってきて、その空っぽになった弁当箱を持って帰ってくれる子どもがいるっていうのは、本当に幸せなことなんよ」

 電話をかければ出てくれる。子どもの体温を感じられる。声が聞ける。

「それがね、みんな当たり前になってるんよな。でも、私たちにはもう、一生かけても無理なんよ」

 いま、末娘は北海道の札幌で暮らしている。

「『遠いよね、北海道』って言われるけど、『剣太に比べれば近い近い』って言うよ。会いに行けるし、声も聞けるし、LINEも繋がれるし」

 そう言いながら、奈美さんは、飾られた写真の中の剣太さんを、指でそっと撫でた。

 剣太さんは、弟と妹をもつ3兄弟の長男だった。いつも下の子たちの面倒をみる面倒見のいい子だった。共働きの両親に代わって弟妹を見守り、部活では主将を務めた。

 そんな「あたりまえに家にいた子ども」が、ある日を境にいなくなった。空になった弁当箱が二度と帰ってこないその事実は、失って初めてわかる、と奈美さんは言った。

◆「落ち着いた?」遺族を傷つけた、悪気のない言葉

 剣太さんを失ってから、奈美さんは「正気に戻るのに3年以上かかった」と振り返る。

 台所で鍋をかき混ぜていて、ふと「もしかしたら空港に行けば剣太がいるかもしれない」と思ってしまう。「早く迎えに行かないと」と、お玉を握ったまま車に乗ろうとしたこともあった。

 深い悲しみのなかにいる人に、周囲は何と声をかけていいかわからない。だからこそ、悪気のない一言が遺族を深く傷つけることがある。

 買い物に出れば、みんなが下から顔を覗き込むように「大丈夫? 落ち着いた?」と声をかけてくる。

「落ち着くわけないじゃん。私は一生、落ち着かんと思いながら、『まだそんなには落ち着いてないけどね』って言って、その場を離れる」

 末娘の迎えに小学校へ行ったとき、亡くなって3か月ほどの頃には思わず言い返してしまったこともある。「お兄ちゃんの荷物は全部片付けたん?」と聞いてきた相手に、「じゃあ、あんたの子どもが死んだとき、そんなにすぐ荷物を片付けきると思う?」と聞き返した。

 だが、こうしたやりとりは稀である。ほとんどの場合、怒りも悲しみも呑み込んできたからだ。「感情を出したら敵を作る。裁判で協力してもらえなくなる。だからグッとこらえるしかなかった」。その努力を、何年も続けてきた。

◆友人の“たった一言”が心を軽くしてくれた

 剣太さんが参加するはずだった成人式。その前日、剣太さんの同級生たちが、自宅まで剣太さんの写真を迎えに来てくれた。奈美さんには、会場へ行く勇気がなかった。代わりに、同級生たちが、剣太さんの写真を成人式へと連れて行ってくれた。

 後日、できあがった集合写真には、晴れ着の同級生たちの真ん中に、剣太さんの写真がおさまっていた。だが、そんな奈美さんに、親しくしていたはずの知人が、こう声をかけてきた。

「剣太はいっつもいいよね。真ん中に、写真を持って写ってもらって。うちの子も、写真で参加すればよかった」

 その知人の子は、仕事が忙しくて成人式に帰れなかったという。

「隅っこでもいい。そこに“写れる”っていう幸せがわかってない上に、それを私に言うんか、って」

 そんな日々のなかで、たった一言だけ、奈美さんの心を軽くした言葉があった。

 剣太さんが亡くなって、1年ほど経った頃のこと。奈美さんが幼稚園から一緒だった同級生が、地元の金融機関で支店長をしていた。

 金融機関の窓口の側に立つ奈美さんを見かけると、彼女は職場を離れ、そばまで来てくれた。そして、奈美さんの肩を優しくポンポンと叩いて、こう声をかけた。

「奈美、どうしてる?」

 そのまま、彼女は奈美さんをカウンターの内側へ招き入れ、ソファーに座らせた。

「これ、食べよ」

 そう言って、お茶とドーナツを、そっと出してくれた。

「大丈夫?」でも「落ち着いた?」でもない。「元気?」でもない。

「『どうしてる?』っていう言葉が、これほど自分に負担のない言葉なんやって気がついた」

 椅子に座らせてくれて、お茶とお菓子を出してくれた。「ありがとう」と顔を上げると、彼女の目は涙でいっぱいだった。

 たった一言でも、選び方ひとつで人を救うことも、傷つけることもある。深い悲しみのなかにいる人にどんな言葉をかけるべきか、私はこの取材を通して考えさせられた。

◆「冷たい石の中には入れられん」17年たっても納骨はしていない

 仏壇の横には、剣太さんの等身大パネルが置かれている。

「もう二度と、剣太が立ってる姿は見られんから。写真はあるけど、立ってる姿は見れんから。だから、あれは絶対にあそこに置いてる」

 遺影に触れようとしても、指先に返ってくるのはガラスの冷たさだけだ。撫でても、叩いても、「カツン、カツン」という音がするだけ。

 そして、17年が経ったいまも、剣太さんの遺骨は納骨していない。

「冷たい石の中には、入れられん」

 夏は暑いし、冬は寒い。だから、まだそばで一緒にいたい。子どもを亡くした親には、そういう人が少なくないのだという。

 家族はみんな、剣太さんの遺骨を分けて、ペンダントにして身につけている。いつまでも一緒にそばにいたいという想いからだ。

◆ヒグラシの声に、今も息子の帰りを思う

 剣太さんは、生前バイクによく乗っていた。夕方になると家のすぐそばの角を曲がって、勢いよく帰ってきた。その音が、いまも耳に残っているという。

 亡くなったあとも、奈美さんは玄関先に椅子を出して座り、その角をじっと見つめてしまう時期があった。剣太さんがバイクで帰ってくるのを待っていたのだ。

 頭では、彼がもう帰ってこないとわかっている。それでも、すぐ横に停めたままのバイクに目がいってしまう。

「そのとき、ヒグラシが鳴いてたんよ」

 だから今でもヒグラシの声を聞くと、あの薄暗い夕暮れを思い出してしまう。あの鳴き声は、あまり好きじゃない。ヒグラシの鳴く季節になると、やっぱりあの角からバイクで帰ってくるのではないかと、思ってしまうのだという。

◆「これからは“剣太の家族”としてできることを」

 なぜ、両親は17年たったいまも、取材や講演で剣太さんのことを話し続けているのか。それは、つらい過去と常に向き合い続ける大変な営みのはずだ。

「この地獄のような状況を、二度と他の人たちには味わってもらいたくないんよ」

 最初は、恨みしかなかった。「顧問らをどうにかしてやる」という気持ちだけだったと語る。けれど、いつからか、それは変わっていった。自分たちの経験が、これから先の誰かの役に立つのならと信じて、活動を続けている。

 両親は今、学校職員や教師だけでなく、これから社会に出る大学生たちに向けても講演を重ねている。「遺族」という括りからは、そろそろ離れたい。これからは「剣太の家族」として、二人にできることをやっていきたい。そう話してくれた。

<取材・文/菅原春二>

このニュースに関するつぶやき

  • 殺人罪を適応すべき。こんなの氷山の一角でもっとシんでると思う。誰だよ「運動中は水飲むな」とか言い出した阿呆は、学生時代ずっと強制されたぞ体育とかで。
    • イイネ!1
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