
「今でも私は、この父の写真を直視できません。過去のことを思い出してしまうので……。だからこうしてハンカチに包み、母の写真の隣に置いているんです」
そう言って、黄色いハンカチに包んだ父の写真を見せたのは、PTSDの日本兵家族会・寄り添う市民の会(以下、家族会)関西代表の藤岡美千代さん(67)だ。
「家族会」は、先の戦争で心に傷を負った復員兵の家族らが体験を語り合い、実態を社会に伝えるための当事者会だ。戦場で極限状態を経験した復員兵には、悪夢やアルコール依存、家庭内暴力、自殺願望、無気力などに苦しむ人が少なくない。
こうした症状は「戦争トラウマ」と呼ばれ、ベトナム戦争後の米国で広く知られるようになった心的外傷後ストレス障害(PTSD)のことだ。一方、日本では復員兵の心の傷は長く語られなかった。
しかし近年、復員兵の家族がトラウマ体験を語り始めたことで、厚生労働省は2024年度に初めて実態調査を実施した。「戦争は戦場だけで終わらない」という現実が、ようやく知られ始めている。
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美千代さんの父・古本石松さんも、戦争トラウマに苛まれた復員兵だった。1922年、鳥取県の農家に生まれ、19歳で海軍に志願。敗戦後、シベリアで約3年間抑留され、26歳で帰国。その後結婚し、長女として美千代さんが生まれた。
「私が5歳くらいのころから、父は、夕方になると決まって酒を飲んでいました。飲み始めると、目がつり上がってくるんです。夕食を食べようとした瞬間、『うりゃー!』とちゃぶ台をひっくり返す。そのたびに2歳上の兄が『逃げろ!』と私の手を引き、裏の畑へ連れ出してくれました」
父は、子どもたちに「起立!」と号令をかけ、「みんなで死ぬぞ」と言ってガスの元栓を開けることもあった。
「『シュー』という音がすると、母は『死ぬならお前だけで死ね!』と元栓を閉めるんです。すると父は布団に突っ伏し、子どものようにワーッと泣き出しました」
雨音におびえ、部屋の隅で「あいつが殺しに来る」と頭を抱えて震えながら泣くこともあった。一方、夜中に飛び起き、子どもたちの布団をはぎ、兄を柱にたたきつけたり、美千代さんを踏みつけようとしたりすることも。
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「そんなときの父は、見えない敵と戦っているようでした」
親戚によれば、戦争へ行く前の石松さんは「おとなしく、とても優しい人」だったという。なぜ、そんな父が別人のように変わってしまったの。美千代さんの半生は、まさにその理由を探る旅だったと言える。
■父の死にバンザイを
「戦争トラウマは本人だけでなく、子ども(2世)や孫(3世)にも連鎖することが、近年の研究でわかってきています」
美千代さん自身も、その影響に長年苦しんだ。父から受けた性的虐待も、その背景にあったという。美千代さんが9歳の春。
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「母は3歳下の妹だけを連れて家を出ました。父との離婚が成立したら、母は、私と兄を迎えに来るつもりで準備をしていたんです」
残された父は、さらに酒量が増えていった。
「ある日、母が心配して夜に私たちの様子を見に来ると、父が幼い私に覆いかぶさろうとしていたそうです。私はしばらく叔母の家に預けられました」
幼い美千代さんには、父から受け続けた行為の意味がわからなかった。ただ、「気持ち悪い」「嫌だ」という感覚だけが心に刻まれた。
その年の秋、離婚が成立し、父のいない暮らしが始まった。しかし父は酔って何度も新居を訪れ、そのたびに母が追い返したという。
「忘れもしません。師走の寒い夜でした。その日も家にやって来た父は、珍しく酒の臭いがしませんでした。私たち子どもを前に並べ、私の頭を何度もなでながら、『美千代、許してくれ』と泣いたんです」
それから約2カ月後、父は47歳で自ら命を絶ってしまう。だが母は、子どもたちには「病気で亡くなった」とだけ伝えた。
「私は本当のことも知らず、『やった! お父ちゃん死んだ! これでゆっくりご飯が食べられる』って、兄と一緒にバンザイしました」
しかし、父が亡くなっても、美千代さんが安らぐことはなかった。
「もとから厳しい母でしたが、『ひとり親だからと差別されないように』と、以前にも増して私に厳しく接するようになりました」
さらに、兄は「お父ちゃんとお前がしていたことは知っているぞ」と言って、夜になると美千代さんの部屋に忍び込んでくるように。しかし、母は助けてくれなかったという。身を守ろうと襖を開け放して眠っても、母は見て見ぬふりですぐに閉めてしまうことの繰り返しだった。
「家を出たい。その一心でした」
高校卒業後、母の反対を押し切り、大阪で保育士になった。
「幼いころ、泣いている私を抱きしめてくれた保育士の先生がいたんです。私も、あんな大人になるのが幼いころからの夢でした」
念願かなって保育士として働き始めたころ、親戚から思いもよらぬ事実を告げられる。
「お父さんは首つりやったんや」
最後に父が来たとき、冷たく接してしまった。そのせいで父は死んだのではないか、私が見殺しにしたのではないか。美千代さんは自分を責め続けた。
その後、21歳で結婚し子どもを授かったが、自らの家庭も安らげる場所ではなかった。夫婦関係はすれ違い、夫から暴力を振るわれることもあった。仕事と家事の両立、夫との不和。ある日、美千代さんは感情を抑えきれず、「お母ちゃん、お母ちゃん」と慕ってくる幼いわが子を「うるさい!」と突き飛ばしてしまった。
「娘の小さな体が玄関ドアまで飛びました。それを見た瞬間、『私は親と同じことをしている』と愕然としたんです」
自分の中にも暴力の連鎖がある。そう悟った美千代さんは29歳で離婚。虐待や性暴力について本や学習会で学び、生きづらさの原因を探るなか、あることに気づく。
「オリバー・ストーン監督の映画『天と地』を見ました。戦場の記憶に苦しみ、悪夢で飛び起きるベトナム帰還兵が父と重なり、『父も戦争のPTSDだったのでは』と考えるようになったんです」
しかし、父はすでに亡くなっていて確かめることはできない。
「今さら考えても何も変わらない。父のことは永久凍土に埋めよう。そう思い、30年近く目を背けていました」
それでも幼いころの記憶は不意にフラッシュバックした。
「夏場にミストが『シュー』と噴き出す音を聞いた瞬間、父がガスの元栓を開けて『みんなで死ぬぞ』と言った場面がよみがえり、パニックになったことも……」
そんなとき、そばで寄り添ってくれたのが30代後半でパートナーとなった藤井幸之助さん(65)だ。
「彼は、私が何度同じ話をしても、『大変やったんやね』と受け止めてくれたんです」
初めて、相手の顔色をうかがわずに暮らせる日々だった。
■父の死から55年…父の軍歴を調べて初めて知った“絶望”の抑留生活
さらなる転機は2023年、美千代さんが64歳のときに訪れる。初めて大阪で開催された「家族会」に参加したのだ。
「それまでは、父のことは『うちだけの問題』だと思っていましたが、会場では参加者が『父も戦争から帰って別人になった』『家族が壊れた』と、自らの体験を語っていました。『家族会』代表の黒井秋夫さんが『これは個人の問題ではありません。社会の問題なんです』と話されたんです。その言葉を聞いた瞬間、『やっぱり戦争なんや』と確信しました。私だけじゃなかった。この問題は、社会に伝えていかなければならない、と」
さっそく父の軍歴を取り寄せた。厚生労働省から届いた30枚超の軍歴資料には、19歳で海軍に志願し、終戦後はシベリアで約3年間抑留された父の足跡が記されていた。
「父は、ハバロフスク地方のムーリーの収容所付近で、線路に敷く砕石を作る作業をしていたことがわかりました。その後、鉄道で200キロ以上離れた港町・ワニノへ移り、日本兵捕虜が建設した港の工事にも従事していました」
抑留生活の中で、父は何を思い、何を背負って生きていたのか──。
その答えを探すため、美千代さんは2025年10月、シベリアへ向かう。シベリア鉄道に乗り継ぎ、父が抑留された収容所跡を訪ねた。
「車窓から見た景色が忘れられません。気が遠くなるほど続く白樺林。父も、この景色を見ていたと思ったら、父の孤独や絶望が一気に胸に迫ってきて……。仲間が次々亡くなるなか、自分が生き残った罪悪感を、帰国後も背負い続けていたのではないか、と──」
このシベリアの旅は、今年3月に公開されたドキュメンタリー映画『父と家族とわたしのこと』にも収められている。戦争が父を変え、母を巻き込み、傷が子どもたちへ受け継がれたと実感した美千代さん。それでも「父の暴力は許せない」と語る。
「父が暴力的になった背景は理解できました。でも、父のしたことは絶対に許されることではない。それを許せば、戦争が生んだ暴力まで許すことになる。それだけは絶対にしてはいけないと思います」
■シベリアの地に響いた「お父ちゃん」
記者は7月初旬、絵本とハーブティーの店「オリーブガーデン」(大阪市)を訪れた。前出の藤岡美千代さんが営んでいるカフェだ。
こぢんまりした店内には、美千代さんおすすめの絵本やカエルの置物、雑貨が所せましと並ぶ。
「私、カエルが好きなんです。子どものころ、親にかまってもらえなかったから、よく近所の家に遊びに行っていたの。その家にあったカエルの絵本が大好きで、開くたび私を迎えてくれているような気がしたんです」
50歳で30年間続けた保育士を辞め、「オリーブガーデン」を開いた美千代さん。「カエルが好き」と話していたら、お客さんが次々とカエルの置物をプレゼントしてくれるようになった。
美千代さんは1カ月に一度、この店で戦争トラウマを経験した女性限定の会を開いている。参加者は、多いときで6〜7人。40代から80代までと幅広い。
「最近は、私がシベリアを訪ねたドキュメンタリー映画を見て、参加してくださる方も増えました」
美千代さんの目には、今もシベリアの風景が焼き付いている。
「村長さんが父がいたらしい収容所跡を案内してくれました。岩山と白樺、湿地帯が広がる殺風景な場所で、どこまでも同じ景色が続き、希望まで失ってしまいそうな場所でした。冬は深い雪に覆われる中を、捕虜たちは30〜40キロ歩いて労働現場へ向かったそうです」
記憶を封印したはずの父だった。それでも美千代さんはシベリアの地で、思わず「お父ちゃん!」と叫ばずにはいられなかった。
「ウクライナとの戦争が終わったら、必ずこの地に、(家族会のシンボルの)白旗を立てに来よう」
美千代さんはそう誓い、村長と固くハグを交わした。
(取材・文:和田秀子)
【後編】「うちだけじゃなかった」戦争トラウマに苦しむ復員兵家族たち、2世や3世へと広がる共感と平和への願いへ続く
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