画像は星野真里Instagramより『24時間テレビ』の功罪をどう考えるべきか。今年は特に重い問いを投げかけました。チャリティーマラソンを走った星野真里の言動への批判が想像以上に厳しいものだったからです。
◆星野真里の言動に厳しい批判が集まった理由
今回走るきっかけとなったのは、先天性ミオパチーという難病と戦う11歳の娘、ふうかさんの存在です。学校で障害のない生徒とともに勉強しながらも、教室の片隅に車椅子でひとりポツンとたたずむ光景に、多様性を重んじるインクルーシブ教育からかけ離れた現実を痛感したという星野。
障害を持つ子供の母親としてマラソンを走れば、社会を変えるきっかけになるかもしれないという動機があったと語ってきました。
ところが、これに対するネット上の反応は思いのほか厳しいものでした。マラソンゴール後には、教員を名乗るアカウントから、「明日から学校に行くのが恐怖」という投稿がありました。これは、星野が訴えるインクルーシブ教育への社会的認知と支持が広まることで現場の負担が増大することを恐れての発言だと思われます。
また『24時間テレビ』関連のネットニュースへのコメントでも、「人工呼吸器を付け、全介助が必要な児童を学校に求めるのは無理があるのだから、支援学校に行くのが望ましい」という意見が多くの共感を集めていました。
X(Twitter)でも、「知的障害ではなく肢体不自由者であるということから特別支援学校への通学を提案されていたはず。にもかかわらず、普通の学校に入学させたのは、知的障害ではないから障害ではないという親のエゴなのではないか」という投稿が多くのインプレッションを得ています。
こうした意見からは、学校のリソースが不足しているという現実論と、障害の種類を厳密に区別して対応すべきという原則論が、一定の支持を集めていることを示しています。
そして、今回のチャリティーマラソンが例年と異なる理由は、まさにこうした世の中の空気を、番組が想定していなかった形で浮き彫りにしてしまったからなのです。
◆まるで「ドイツで躍進する極右政党の主張」
さて、星野真里への批判をそれぞれ読んでいくと、みな筋が通っているように思われます。少なくとも、罵詈雑言や誹謗中傷というようにはなっていない。冷静に、星野の主張の穴をついていくようなコメントがほとんどです。
しかし、これらの意見が冷静で客観的であればあるほど、底知れぬ冷え冷えとした恐怖を感じるのです。なぜなら、星野への批判的な意見が、驚くほどにドイツで躍進している極右政党の主張と似通っているからです。
9月6日にドイツ東部のザクセン・アンハルト州で行われる州議会選挙で、「ドイツのための選択(AfD)」という政党が掲げる公約が波紋を広げていると、読売新聞が報じています。なかでも障害児教育の見直しが社会に衝撃を与えているのだそう。その主張は、「障害児と健常児が同じ教室で学ぶという実験は失敗した。障害児は授業の進行を妨げる」というもの。その上で、「ドイツのための選択」は特別支援学校の強化を選挙公約に盛り込んでいるのです。
これを読めば、今回の星野真里の主張に対するネット上での「正論」と呼ばれる論理展開と、驚くほど似通っていることがわかるはずです。
もちろん、日本のネット世論と「ドイツのための選択」の主張を全く同じだと言うことはできません。しかし、障害児と共に学ぶ理想よりも、現実的な負担であることを懸念している点ではかなり近い考えであることは確かです。
つまり、今年の『24時間テレビ』は、ひょっとすると日本国内で眠っていた障害児との共生をめぐる厳しい本音を可視化させてしまったかもしれないのです。
◆冷徹で突き放した意見が支持される理由は?
もちろん、そのことに対して星野真里の責任は何もありません。彼女は自らの置かれた立場から、権利の正当性を主張しているだけであって、賛成や反対はあるにせよ、そのことへの議論自体は止められるべきではありません。
しかしながら、本来ならば意見の相違を超えて、まずは彼女に対する共感や心情をおもんばかるべき場面で、こうした冷徹で突き放した客観性を重視するような言動が良識だとして支持されている状況は、一体どこから生まれたのでしょうか?
そこで考えたいのが、『24時間テレビ』が扱ってきた「障害」という概念です。今回SNSで番組への疑問として問われていたのが、「この番組はどうにもならない絶望を感じさせるような障害者を扱ったことはない」というものでした。たとえば、ダウン症の子供たちがオリエンタルラジオとPERFECT HUMANを踊ったりする出し物は見せても、親族に身体的ダメージが加わるほどの強い力で暴れてしまう障害児のことは取り上げない、と。
つまり、『24時間テレビ』が扱ってきた障害は、意図するとしないとに関わらず、結果として見せたい障害ばかりになってしまい、さらに言えばテレビで「感動の物語」として提示しやすい障害に偏っていたのではないでしょうか。コンテンツとして放映できるリミットを超えないものをより分け、番組の想定するプロットの出演者として配置してきたというわけです。
しかしながら、それは「過剰に美談を煽るだけなのではないか」としてこの数年批判を浴びてきた姿勢でもあります。そして制作態度への不満が、知らず知らずのうちに障害者と障害者政策への不満に重ね合わされてしまう。こうして不信感が積み上がってきたところに、星野の教育行政に対する明確な主張が引き金になり、世論がひた隠しにしてきたどす黒い感情に、はっきりとした言葉が与えられてしまったのです。
それが、「支援学校に通わせろ」という、一見すると正論に見えるけれども、排除を意図した通告として機能してしまっているのです。
◆『24時間テレビ』は、一段階深いフェーズへと足を突っ込んだ
例年はネタ的に冷笑される『24時間テレビ』ですが、今年は一段階深いフェーズへと足を突っ込んだように思われます。
これまでなら、同情という美談で消費されていた事柄を、冷やかな合理性の壁が跳ね返す構図に、少なくない人々が快哉を叫んでいるからです。
もちろん、これをもって日本の社会全体が変わってしまったとまで言うことはできません。しかしながら、何か仄暗いものが静かにうごめいているのではないか。
そんな嫌な予感を漂わせる、チャリティーマラソンなのでした。
文/石黒隆之
【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。X: @TakayukiIshigu4