
『週刊プレイボーイ』でコラム「呂布カルマのフリースタイル人生論」を連載している呂布カルマ
ラッパーとしてはもとより、グラビアディガー、テレビのコメンテーターなど、多岐にわたって異彩を放っている呂布(りょふ)カルマ。『週刊プレイボーイ』の連載コラム「呂布カルマのフリースタイル人生論」では『言葉や発言への責任』について語った。
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★今週のひと言「SNSでもリアルでも、言葉に責任を持とうよ」
「男に二言はない」とか「吐いた唾は飲むな」なんていわれていたのはもう昔の話。今は裏アカ、ツイ消し当たり前の時代。それどころか「男なら」でさえ一瞬ためらわれる始末だ。
とはいえ、考え方や価値観などは時間や経験によって変化していくのは当たり前で、「一度口にしたからには!」みたいな考え自体は非効率的だとは思いつつも、あまりにもころころ意見が変わったり、なかったことにしたり、そもそも顔を隠して安全圏から意見するようなやからが増えすぎたのではないか。
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それらは恥ずかしいことではなく、もはや当たり前で、それ自体はけっこうなことだとは思うのだが、あまりにも無責任な言葉があふれ、言葉自体の力が空虚なものになりつつある。
その上、最近ではその言葉を発した主が人間なのかAIなのかの判別すら困難だ。
俺自身、日々実感する言霊(ことだま)という概念があるが、それは発した者の魂が言葉に乗るものだと思うのだが、果たして魂を持たない人工知能が発した言葉や文章に魂は宿りうるのだろうか?
AIの空っぽな言葉と、曲がりなりにも人間の言葉が同じプラットフォーム上で混在している状況だ。それらが当たり前の時代に育った若者たちにとって、言葉や発言への責任はどのように変容していくのだろうか。
その点、現代においてもいまだ名前と顔を出している著名人や公人の言葉には、むしろ過剰なほどの責任が課されている。カメラの前や、場合によってはクローズドな場面でさえ、たった一度の不適切発言や失言によってそれまでの功績や地位を一気に失い路頭に迷いかねない。
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すると発言力があればあるほど臆病になり、慎重に言葉を選ぶようになる。それは安全であるかもしれないが面白みに欠ける。そして、それを見た者のフラストレーションは、SNSにあふれる無責任な罵詈雑言(ばりぞうごん)によって解消されるという最悪な循環に陥る。
その点、俺はメディアなどの露出やコメンテーターなども務めながらもラッパーであるという稀有(けう)な立ち位置だ。
時間の問題かもしれないが、今のところラッパーはサンクチュアリ的にコンプラや不謹慎といった価値観から除外されているのだが、俺の場合は複雑で、メディアでの発言やXの投稿は厳しく取り上げられ、たびたびプチ炎上しながらもラップの内容に関してはいまだスルーされている状況だ。
とはいえ、一曲でもヒットが出てしまったら過去のフリースタイルや歌詞にも責任説明が求められるようになるのかもしれないが。そのせいで俺の中では準公人としての自覚と、その一方で俺はラッパーなのにという意識のせめぎ合いが常にあるのだ。
無責任なネットの声は何を言ってもいい。というか厳密には良くないのだが、その意見がなんの力も持たないことが世間にも周知され出している。
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しかし、有名人の場合はそうではない。にもかかわらず、なぜか誰かのスキャンダルや不祥事の第一報だけを見て物申したり立場を表明したがる有名人が一定数いる。
最近の事案だけ見ても、記事に対するカウンターや第ニ報三報と出るにつれて潮目がころころと変わる例はいくらでもあったはずなのに。取りあえず結論が出るまで黙ってればいいのに、なぜかお気持ちや立場を表明しようとする。
興味ねーんだよ、おまえの見解は。
で、結局最初に立場を表明してしまったがゆえに、その後の追加情報で風向きが変わろうとも曲げられなくなっている人や、何もなかったかのようにツイ消しして黙る人......。そろそろ学ぼうや。
撮影/田中智久
