
抜けるような青空の下、白いベンチに腰を沈める錦織圭は、タオルに顔をうずめて、肩を震わせていた。
2026年10月1日──。木下グループジャパンオープンでフランシス・ティアフォー(アメリカ)に4-6、4-6で敗れた瞬間、19年に及ぶプロキャリアに幕が引かれた。
最高位は世界4位。アジア男子初のグランドスラム決勝進出。ATPツアー優勝12回。年間レース上位8選手のみが立てるATPツアーファイナルズにも4度出場。
数々の栄光に彩られた長いキャリアを締めくくる試合を、ほぼ満席の有明コロシアムで、ファンの大歓声を浴びて終える。対戦相手は、世界8位のトッププレーヤー。
ただ、試合後のセレモニーで花束を手にする錦織は、自嘲気味に笑って言った。
|
|
|
|
「いや、本当に負けず嫌いなんですかね。もうちょっと見せたかった。それしかないです。ちょっとどっかネジ、外れてるんでしょうね」
もっとできたはず。もっといいプレーを見せられたはず──。
最後の試合を終えてなお、それが彼の胸を占めた思いだった。
「負けず嫌い」や「反骨精神」は、世界という大海原を渡った30年に及ぶ錦織の旅の羅針盤だ。
父親が海外出張の土産に買ってきてくれたジュニア用ラケットを手にした5歳の日から、錦織は否応なく、挑戦者の側に身を置いてきた。4歳年上の姉・玲奈さんが、最大のライバルとしてそびえ立ったからだ。
|
|
|
|
成長が早く体も大きかった姉は、サーブや強打で錦織を圧倒していた。だから錦織は、幼い頃からパワーに対抗すべく、戦術や技を磨いた。
「ドロップショットとかを決めると、小憎らしい顔して笑うんですよ!」
そう懐かしそうに笑う玲奈さんの言葉を聞いたことがある。
「僕の場合、最初はお姉ちゃんがライバルで、ずっと近くにいてくれた。それがまず、ひとつ目のやる気になった」
姉の存在の大きさを、錦織も率直に認めていた。なお、錦織が玲奈さんに勝てるようになったのは、小学5年生の頃だったという。
|
|
|
|
【小さな反発心を見せたことも】
13歳の時に、本人いわく「正直、別に好きでもないアメリカに行った」のも、すべてはテニスで強くなるため。この時、錦織とともに海を渡った少年はふたりいる。最年少の錦織は、当時3人の間で試合をすれば、敗者の側に身を置くことが多かった。
「日本から3人で一緒に盛田ファンドの支援でアメリカに行って、ライバル心というか、すごく気持ちを駆り立ててくれました」
ここでも彼は、反骨精神をたぎらせてきた。
自分より体の大きな相手に、パワーで上回る選手に、時速230キロのサーブに対抗するには、結局はボールを打ち、頭をひねり、体を鍛え、そしてまたボールを打つしかない。
「僕は、コツコツとやるのは好き。努力って言葉、好きですよ」
周囲からは「天才肌」と目され、天賦の才をうらやましがられてきた錦織だが、その本質は努力の人。そういえば、「楽しそうにテニスをする」という言葉に、小さな反発心を見せたことがあった。
「よく『楽しそうだね』って言われるけれど、痛みと戦っているし、つらい思いもたくさんしているし......」
決して自ら声を大にして訴えはしないが、自己認識と周囲からの印象との乖離に、小さなジレンマを覚えたこともあったようだ。
世界で戦うべく積み上げてきたテニスは、小柄な体で全仏オープンも制したマイケル・チャンをコーチに据えたことで、さらに鋭利さを増す。ベースラインから下がらず、広角に打ち分けることで、相手の時間と空間を奪う超高速テニスの確立。そのテニスはファンだけでなく、世界中の若手選手たちに衝撃と影響を与えた。
現役最後の対戦相手となったティアフォーも、そのひとり。かねてティアフォーは「僕は圭のビッグファン」と公言している。今大会でも「ベースラインから下がらず打つ圭のバックハンドはすばらしい。ボールを早く捉える攻撃は、相手からすれば悪夢」だと言った。
【トップ10に入るくらい悔しい】
最後となる錦織との対戦で、ティアフォーはその「悪夢」に自ら挑むかのように、バックハンドのクロスラリーを多く重ねた。マッチポイントでは、まるでふたりの時間を惜しむかのように、バックの打ち合いを続ける。
そして20回に及ぶ濃密なラリーの末に、ティアフォーが柔らかなドロップボレーをネット際に沈める。その行方を必死に追う錦織は、目の前で柔らかく二度弾むボールを、うなだれて見届けた。
キャップを脱いだ錦織は、小走りにネット際へと駆けつけるティアフォーと固くハグを交わす。勝ち名乗りとファンの声援を受けるティアフォーは、軽くラケットを掲げると、すっとその手をベンチに座る錦織へと向ける。試合後恒例のカメラサインでは、「It's Kei Day」と書き込んだ。
これが本当に最後のポストマッチインタビュー。「負けず嫌い」であることの意義を尋ねた時、錦織は次のように答えた。
「正直、20代の頃は、年に2回くらいは試合に負けて泣いていた。ツアーファイナルズでも、負けて部屋で号泣してたんで......いい大人が。なので、そういう悔しさは常にありましたし、反動を使って練習をがんばったり、あきらめずに試合したので、すごく助けられたと思います。
まあ、今は若干薄れて、負けてもいい意味で冷静に試合内容を振り返れたり、そこまでアップダウンがなくなってきたのは、年齢のおかげもあるだろうし。そこは30代になって、ちょっと変わってきたところではありますけど。今日も最後の試合なのに、やっぱりトップ10に入るくらいの悔しい終わり方でしたね」
最後の最後まで悔しい──。それはどこか切ないが、これ以上ない、幸福なキャリアの終え方なのではとも思う。オンコートでのスピーチの最後で、彼はこうも言っている。
「最後まで、負けず嫌いが消えなくてよかったなって思います。最後の最後まであきらめずにプレーできたのが、自分の誇りかなと思います」
反骨精神をたぎらせ、誇りを胸に刻み、彼は大好きなテニスコートをあとにした。
内田 暁●取材・文 text by Akatsuki Uchida
