長身の怪紳士で俳優・八名信夫(89)。悪役として殺された回数は1200回を超える。東映撮影所で、文字どおり“死に物狂い”で役に没頭していた時代を、年齢を超えた目の輝きで語り、そして今後の日本を憂えるー。強面ながら、その佇まいはどこか温かい。悪役一代、ここに見参!映画のような人生を、とくとお聞きあれ。
「監督、はよ殺さんかい。次の仕事ができんだろ」
八名信夫が振り返る役に没頭していた時代
悪役として殺された回数は1200回を超える。東映撮影所で、文字どおり“死に物狂い”で役に没頭していた時代を、八名信夫はこう振り返る。
「悪役のほうがゼニを稼ぐことができた。死ねば拘束時間が少なくなるから、次の現場に行ける。死ねば死ぬほど、俺は生きていくことができたんだ」
耳を傾けるこちらをジッと見て、ハット姿でニヤリと笑う。そのしぐさは、まるでギャング映画のワンシーンを見ているかのようだった。悪役には悪役の哲学がある─。
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『網走番外地』シリーズ、『仁義なき戦い』シリーズなどで数々の悪役を演じてきた八名は、1983年、同じく悪役を演じてきた俳優とともに「悪役商会」を結成する。それまでの役とは一線を画すコミカルな一面が認知されると、バラエティー番組などでも活躍。キューサイの青汁のCMでは、「まずい! もう一杯!」と言い放った。
悪役だった男は、いつしか映画やドラマ、テレビ番組で欠かすことのできない存在になっていた。
「俺の人生、これでよかったんだろうかって思うときがある。何かを残してこれたのかなって。ただ、ここまで元気に仕事を続けられたのは、今まで出会った皆さんのおかげだから。80歳を過ぎてずいぶんたつが、誰かの役に立って生きていきたいという気持ちが強くなったんだ」
89歳になった希代の悪役は、自らの足跡を顧みる『悪役は口に苦し』(小学館)を上梓し、思いの丈を伝えた。その冒頭で、八名はこう綴っている。
《小学校の学芸会の「桃太郎」で、いつも「鬼」の役をやらされていた。(中略)考えたら、小学校の頃から、悪役をやってたんだなあ。鬼だって、いい鬼もいれば悪い鬼もいる。鬼が悪い鬼を、退治したっていいじゃないか》
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なるべくして悪役になった。だが、多くの人に愛された。なぜ八名は、いい鬼として花を咲かせることができたのか─。
明治大学野球部からプロ転向。実は大谷翔平の先輩!
1935年、八名は岡山県岡山市で3人兄弟の末っ子として生まれる。3歳のとき、肺結核を患った生母は伝染を恐れて、籍を抜いて家を出た。父は後妻を迎えたが、「最初はお母さんとは呼ぶことができなかったな」と八名は回想する。
「俺が9歳のときに岡山大空襲があった。逃げる途中、田んぼの溝の中で気絶してしまい、なんとか炊き出しをしている小学校へたどり着いた。はぐれた母もいて、『信ちゃん、これ食べ』と自分のおにぎりを半分に割って抱きしめてくれた。それからお母さんと言えるようになったんだ」
終戦後、疎開先の平島(現・岡山市東区)で進駐軍がキャッチボールに興じる姿を見たことがきっかけで、野球に興味を覚えた。父は、岡山で千歳座という芝居小屋兼業の映画館を経営する興行師だったが、八名は野球選手に憧れを抱いていくようになる。
俳優のイメージが先行するが、八名は元プロ野球選手でもある。明治大学から東映フライヤーズにピッチャーとして入団。といっても、すんなりと入団したわけではない。
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「明治大学野球部のしごきがひどくて、冗談抜きでこのままでは死ぬと思った。ある日、仲間が『八名、逃げろ』と協力してくれて、逃げ出す形で退部したんだ」
プロ野球にドラフト制度が導入されるのは1965年。八名が退部した1956年時点では、球団は直接交渉し、一本釣りで選手を獲得していた。「明治大学に八名といういいピッチャーがいたが、どうやらそいつが逃げたらしい」。たちまち噂は広まり、東映フライヤーズの球団関係者と会うことになった。逃亡から、わずか3日後のことである。「むちゃくちゃな時代だよな」、懐かしそうに目を細めて、八名が笑う。
「プロ野球といっても、東映フライヤーズの本拠地、駒沢野球場は土ぼこりが舞うような原っぱみたいなもの。俺たち選手よりお客さんが少ないときもあった。まさか、“こんなに”人気が出るようになるとはなぁ」
経営権を買い取った日本ハム
後年、東映フライヤーズは身売りし、日拓ホームフライヤーズとなる。その日拓も売却し、経営権を買い取ったのが日本ハムである。
八名は、米大リーグで活躍する大谷翔平選手の先輩でもあるのだ。
「『エスコンフィールド』っていい球場だよな。駒沢野球場とは、まさに雲泥の差(笑)。俺もああいう場所で投げてみたかったよ」
その言葉には、若干の後悔がにじんでいるようだった。八名はプロ野球3年目の1958年、日生球場で登板した際、割れたピッチャープレートに自身のスパイクが食い込み、転倒。腰を骨折してしまう。今のように整備が行き届いた球場であれば、悲劇は訪れなかったかもしれない。選手生命を断たれた八名は、現役引退を余儀なくされた。
ケガをしてから1年後。東映の大川博社長(当時)から「映画のほうに移れ」と通達が届いた。事務作業でもするのだろうと高をくくっていたが、告げられたのは東映・大泉撮影所の俳優としての契約だった。
「六本木にある東映の稽古場へ行くと、真っ黒いタイツをはいた男たちが足を上げて踊りの練習をしていた。男っぽさが売りのプロ野球選手の俺が、『あんな格好で踊れるか!』と思った。後日、『岡山へ帰ります』と告げたよ」
だが、居合わせた所長も、「大川オーナーの要望だ」と譲らない。野球と映画、フィールドは違えども東映は親会社。世話になった恩義もある。加えて、
「岡山に帰るとは言ったものの、本当は帰りたくなかった。姉は神戸へ嫁ぎ、兄は勘当されていたから、岡山に戻れば実家の千歳座を手伝うしか選択肢はない。だから、東京で一旗揚げたいって気持ちが、まだあったんだ」
不承不承、受け入れることにしたが、案の定、思うように演じることはできなかった。通行人を演じても、身長182センチの八名は悪目立ちしてしまい、遠くのほうへ誘導される。画面を見ても、「自分で自分を見つけることができない」ほどの端役を演じる日々。日当は、500円。生活は困窮し、プロ野球時代に購入した時計や車は半年で消えていった。
当時の映画界は、専属監督や俳優の引き抜きを防止する「六社協定」が締結され、東映、東宝、松竹、大映、日活、新東宝の6社が映画製作を競い合う時代だった。年1回行われる専属俳優たちによる「野球まつり」は、さながら代理戦争の様相を呈していた。八名は、大映との大一番で活躍し、東映を勝利へ導く。くしくも、挫折したはずの野球によって、八名の俳優人生は動き出す。
「そのご褒美なんだろうな。約1年後にテレビ時代劇の『紅孔雀』の主役を演じることになった」
『紅孔雀』は兄弟が悪人を退治していく物語。八名は兄役を、弟であるもう1人の主役は、澤村藤十郎(当時の澤村精四郎)が演じることになった。回を重ねるごとに人気を集め、八名の株も上がっていった。だが、
「俺の収入は上がらない。ところが、ドラマに出て殺される悪役は、死んだらさっさと次の現場へ行って稼げていた。しかも、自由に自分の芝居をつくり、死んでいくところまで自分で演じていたんだ」
輪をかけて八名にはコンプレックスがあった。取材の際も時折発せられる“岡山弁”である。
「染みついたものだから自然と出てしまってなぁ。だから、当時はセリフの多い役を望んでいなかった。一方、殺される役はセリフがほとんどない。『これだ!』って思ったよ」
『紅孔雀』と同時期、ある映画の端役として参加した八名は、監督に「身体が大きいから、撃たれて倒れたとき、砂ぼこりが立って、迫力が出ると思うんです。一回やらせてください」と直談判した。自ら悪役をやらせてほしいと売り込んだのだ。
「倒れたときにほこりが出るように、倒れる場所に灰を多くまくよう助監督に頼んだ。そして、灰を巻き上がらせるために衣装部にトレンチコートを用意してもらった。バサッと巻くように倒れれば、灰が舞い上がってダイナミックなやられ方になると思ったんだ」
カットの声がかかると、監督は喜びながらこう言った。
「迫力があるな。もう遠くを歩かんでいいから、これからはこっちへ来て死ね」
『紅孔雀』終了後、八名のもとにはドラマ『特別機動捜査隊』の刑事役のオファーが届いたという。だが、ギャラが安いという理由から断った。死ねば死ぬほど、俺は生きていくことができる─。このとき刑事を選んでいたら、後の悪役スターは生まれていなかったかもしれない。
スターを震え上がらせる悪役を目指して研究の日々
運動神経のよかった八名は、その体躯を生かした悪役としてのあり方を研究するようになっていく。
「千歳座は洋画専門の劇場だったから、子どものころからギャング映画をよく見ていたんだ。素養があったのかもな。悪役の演技を見て、自分の中に取り入れていった。人生、何が起こるかわからんなぁ」
一方で、偽らざる気持ちも披瀝する。
「そりゃ高倉健さんや石原裕次郎さんのようなスターになりたかった。でも、わかるんだよ。自分には健さんや裕次郎さんが持つ男の色気や魅力がないってな。その代わり、俺には不気味さがあった。だから悪役の華を見せてやろうって思った」
ハットのかぶり方、たばこの吸い方、コートの襟の立て方……あらゆるしぐさに悪役としてのディテールを追求した。他の悪役がウイスキーを飲む中で、1人だけ牛乳を飲むといった驚くような提案もした。八名のこだわりは、監督の首を縦に振らせるだけの説得力を帯び、着実に現場の信頼を勝ち取っていった。
「こっちも必死だった。悪役のギャラは安い。だからといって、早く死ねばいいってもんじゃない。インパクトを残すことも重要なんだ。例えば、当時の東映には“危険手当”といって、冬に水の中に飛び込むと手当がもらえた。だから、『今日は水があるな』なんて思ったもんだ(笑)」
もちろん、ただでは死なない。
「殺されるシーンはフィルムを数秒くれる。撃たれて水の中に落ちると、俺は口の中に含んだ血糊を噛んで、血をゆっくりと吐きながら苦しみ悶える顔をする。セリフなんかなくたって役者はできる。数秒の中で、いかに死にざまを見せられるかなんだ」
1960〜'70年代に絶大な人気を誇った『網走番外地』シリーズ、『不良番長』シリーズで八名と何度も共演した俳優の谷隼人は、「八名さんはスターが立つ悪役」と証言する。
「悪役は殺されにいくのではなく、殺しにいくという気概がないといけません。鶴田浩二さん、高倉健さん、梅宮辰夫さんなど錚々たるスターが悪役として八名さんを好んだのは、そういった殺しにいくという目を持っていた方だからですよ」(谷)
八名は、取材の中で何度も、「殺される役であっても、一緒に仕事をしたいと思われるような役者にならないとダメだ」と口にした。
「鶴田のおやじさんから、『ドスを抜いたとき、客に竹光だと思われたら終わりだ』と言われた。本物には重さがある。怖さがある。これは芝居じゃないんだと思わせないといけないってな。敵が殺しにきたんだから、主演もガタガタと震える。その怖さを俺が描けなきゃいけない。スターを震えさせることができない悪役には価値なんかないと教えられた」
再び、谷が確言する。
「八名さんの悪役は、弱いやつをいじめているように見えないんです。強い主役に立ち向かう悪役。その悪役をスターが倒すから、スターも弱い者いじめに映らない。悪役だけれど、映画作りにおいて絶対的な理解者であり協力者だった」(谷)
いつしか、八名の名はクレジットでも大きく載るまでになった。宿泊部屋も、大部屋から個室に待遇が変わった。観衆は、八名の顔を見て、「怖いやつが出てきたな」と思うようになった。そして、予期せぬ出会いも……。
「自宅に人が訪ねてきて、ドアを開けると60歳くらいの女性が立っていた。30年近くも会っていないのに、すぐに生母だとわかった。泣いていたよ」
それから数か月ほど、生母は八名の家を訪ねるようになったという。
「『これからどういうことをしていきたいか』と聞いたら、『どこかの湯治場でゆっくりしながら原稿を書きたい』と言うから、『決まったら教えてね』と話した。これが最後の会話だった」
5〜6年後、長野県の鹿教湯温泉の保健所から「亡くなった」と連絡があった。肝臓がんだった。
「迎えにいくと、すでに骨になっていた。引き取ったものの、どうしていいかわからず、ロケ先の旅館の押し入れに隠して、従業員が毎朝持ってきてくれるお茶をお骨の前に置いて、『行ってくるぞ』と手を合わせていた」
悪役として殺された後、部屋に戻り亡き母に手を合わせる。そんな日々が1週間ほど続いた。「あんなに苦しいことはなかった」。鬼の目に涙が浮かんでいたような気がした。
「悪役商会」を設立し、悪役たちと縦横無尽な活躍
悪役。今でこそ、その聞こえはいいだろうが、今から40年以上前は事情が違った。そのころの悪役としてのイメージは私生活に支障をきたすものだったと、八名は語る。
「俺の家に空き巣が入って交番に相談に行ったら、お巡りさんが犯罪者リストをチェックして俺をジロジロと見る。子どもを連れているだけで誘拐犯に思われたこともあった(笑)。俺たちは悪役であって、悪人じゃない。そう言っても理解されなかった」
裏を返せば、それだけ八名の悪役としての演技が観客の脳裏に焼きつくものだったともいえるが、「悪役以外の芝居もやりたい」と八名が考えるようになったのは自然なことだった。東映にそのことを伝えると、「役者として大事なことだ。いろんな主役たちとぶつかって勉強してきなさい」と、送り出してくれたという。
1983年、八名は監督や大物俳優に媚びずに自分たちで企画を立てて芝居をするために、『悪役商会』を設立する。入会資格は、「悪役歴25年以上、殺した人数2000人以上、殺された回数700回以上」。初期メンバー12人がそろう記者会見の場は、東京・池袋の西武劇場。スポットライトとは無縁の強面の男たちを、カメラのフラッシュが一斉に包んだ。
劇場で公演を行い、悪役以外の役もできることを証明した。2年後には、味の素の「アルギンZ」のCMに起用されるまでに、『悪役商会』の名は羽ばたいていく。しかし、『悪役商会』代表兼八名のマネージメントを務める竹谷英子さんは、「決して順風満帆というわけではなかった」と語る。
「当時は悪役の待遇が、驚くほど悪かった。ドラマのキャスティングのお話をいただいても、1か月スケジュールを空けてほしいと言われる。『〇日と△日は仕事が入っていますので、その2日だけは厳しい』と伝えると、『だったら結構です』と断られる。そういったことが日常茶飯事でした」(竹谷さん)
ギャラも驚くほどに安かった。悪役はたくさんいるから仕事が欲しいなら合わせろ、というわけである。
「悪役の地位を上げなければいけないと思いました。相手から声をかけられる存在にならなければいけない。とても生意気なことですが、八名自身、『都合に合わせられ続ける限り、役者としては見てもらえない』とこだわってきたことなんです」(竹谷さん)
すると八名が、「昔、1人の酔客にこんなことを言われたんだ」と思い出話を教えてくれた。
“最近の映画が面白くないのは、あんたたち悪役のせいだ。あんたたち悪役は、「主役さん、監督さん、プロデューサーさん、次の仕事も使ってください」。そういう目つきをしているんだ。だから、画面に迫力がないんだ。媚びてるんじゃないのか!”
「焼け火箸を腹に突っ込まれた気がした。それからというもの、声をかけられてもらえるような悪役にはどうやったらなれるかを考え続けてきたんだ」
その思いを酌むために、竹谷さんは子ども番組や歌番組、バラエティー番組といったテレビの世界に『悪役商会』を売り込み、認知度向上に奔走した。こうした背景には、「悪役俳優がいるから主役や映画、テレビが引き立つ」とマスコミ各社が応援してくれたことも大きかったと、竹谷さんは付言する。
中には、「なんでこんな仕事を俺たちがしないといけないんだ」と反発する者もいた。だが、その都度、リーダーである八名が理解を促した。
前出の谷隼人が、八名の人柄について口を開く。
「オンとオフの切り替えが上手な方です。オフのときは気さくに声をかけてくれて、僕はいつも心地よい先輩だなと感じていた。そういう人だから、『悪役商会』をまとめることができたのだと思います。上に立つ人は、気配り、目配り、心配りができる人です。そして、役者である以上、金配りも大切です。
きっぷがいい人でないと、まとめられない。芝居はその人の生きざまが出るんですね。八名さんが悪役なのに、多くの人から愛されるのは、八名さんの生きざまが愛されるものだからですよ。それが人間、八名信夫です」(谷)
青汁のCMも、包み隠さない八名の人間性によるところが大きい。実は、当初は青汁を飲んで、「こいつは悪役にもいいな」というセリフの予定だった。しかし、
「セリフが面白くないと思った。それで、『まずいって正直に言ったらどうですか?』と提案したんだ。社長は頭を抱えたものの緊急会議を開き、『やってみよう』ということになった。ただ、フォローをしてほしいと。それで、表情を変えて笑顔で『もう一杯!』とグラスを突き出したわけだ」
CMの契約は3か月だけの予定だったが、自社製品を「まずい」と言ってのける前代未聞の広告は、大反響を巻き起こす。
「それから30年近い付き合いになるとは思わなかったなぁ。CM撮影のとき、社長と一緒に畑に入って、ケールを採ったこともあった。俺はキリギリスじゃねぇぞ(笑)」
作業着ブランド「寅壱」のCMの振り付けも、八名によるアイデアだったという。面白くないと感じれば、自ら積極的にアイデアを出す。監督に死に方をアドリブで直談判したときもそうだった。その仕事の流儀が、旧態依然とした悪役のイメージをぶち壊し、悪役の地位と可能性を切り開いた。
世の中のために「悪役であり続けたい」と誓う
八名は80歳を過ぎて、初めて監督作品を手がけた。東日本大震災が起きたとき、気仙沼で暮らす『悪役商会』の仲間が被災。それを機に気仙沼と南相馬へ通うようになり、『悪役商会』の俳優たちとともに仮設住宅や仮設商店街、老人ホームを訪ねた。音響設備も何もない所でショーを行ったこともあった。
「あるとき、子どもたちに話を聞こうと思って、『今一番してもらいたいことは? 何かないか?』と声をかけたんだ。すると男の子が、『ばあちゃんと妹が流されて、まだ見つかっていません。今一番してほしいのは、一日も早く2人を見つけてもらいたい』と涙ぐんで訴えた。どうして悲しいことを、俺は言わせてしまったんだろう……自分が情けなかった」
帰京してもその子の顔が忘れられなかった。考え続けた結果、故郷、家族、人への思いやりを描く映画を作ることを決意した。
「『おやじの釡めしと編みかけのセーター』という題名で、脚本を書き続けた。被災した人たちに衣食住は提供できたかもしれない。でも、心の思いやりまでは渡せていないと思ったんだ」
2016年に発生した熊本地震のときは、復興を目指す熊本を舞台に2作目となる監督作品『駄菓子屋小春』を製作した。この作品では、被災した人々の心象を描くだけでなく、荒んだ心がいかに人を変えてしまうかを説いた。
「俺は空襲に遭った。逃げる途中、焼夷弾に街を焼かれ、たくさんの命が奪われた景色を知っている。同級生の女の子を助けられなかったことに、今も呵責を感じているんだ。劇中で、『戦争は人の心まで消し去る魔の消しゴムだ』というセリフが出てくる。人の心を考えていかないとダメなんだ」
多くの人がその人柄に惹かれる
八名は、世の中から思いやりが失われていると語気を強める。先日も、電車内で苦しそうに立っている老年女性を見た。目の前にいる大学生とおぼしき若者は、スマホに夢中で動こうとしない。その光景を眺めていた八名は、「よし、悪役でいこう」。スイッチを入れた。
「おまえら、立て! お母さんたちが立っているのが見えないのか!」
ドスの利いた声が響き渡った。悪役の本領発揮である。
「悪役が役に立つって、こういうことなんだ。向かってこられたらと思うと、俺だって怖いよ。でも、俺は鶴田のおやじさん、高倉健さん、若山富三郎さんにすごんできたんだ」
そう説明する声は、若者を一喝した声とはあまりに対照的であろう温かさに満ちていた。
「『悪役商会』を設立した理由のひとつに、鶴田のおやじさん、健さんが教えてくれた、“悪のあり方”を伝えていくってこともあった。今、こうやって取材を受けている最中に、突然、俺がバンッ!とピストルで撃ち込んだら、観客は『こんなところにも悪があるのか』って怖くなる。悪ってのはそういうものなんだ」
少し口をつぐむと、八名は寂しそうに言葉を漏らした。
「……悪の質が変わってきた。人の心を考えていないからだろうなぁ」
八名と話すと、おそらく多くの人がその人柄に惹かれるに違いない。筆者もその1人で、「人間的に素晴らしい人だからこそ、悪役ができるのだろう」と感じていた。しかし、『悪役商会』代表の竹谷さんは「八名は、『自分は決して立派な人間ではない。だから褒められるようなことを望まない』。そういう人なんです」と話していた。
「八名が大切にしていることは、引き受けたことは最後までやる。縁を大切にする。役に立つために考える……どれも普通のことなんです。昭和の人間ですから。特に八名は、悪役というイメージがあるから、ことさら大事にしているのかもしれません」(竹谷さん)
“人を大切にする”ことを大切にする。ごく当たり前のことを、私たちは忘れているような気がする。訴えるように八名が語る。
「他人の子に対してね、思いやりがなくなってきている。大人が叱って、守ってやろうっていう思いが、この世の中から消えていっている。『何時まで遊んでんだ。お父さん、お母さんが心配してるじゃないか』って言ってあげてほしい。愛情を持って叱ることが守るってことなんだと伝えていきたい。守れないってことは、思いやりがないってことなんだ」
きちんとした人がたくさんいたから、悪役は際立っていた。今は、いい人なのか悪い人なのかよくわからない、まだらな世の中になった。悪役を考えることは、翻って普通であるとか、きちんとするとか、人の心を考えることでもあったのだ。不世出の悪役だからこそ─八名信夫にしか伝えられない人の心がある。
<取材・文/我妻弘崇>
あづま・ひろたか フリーライター。大学在学中に東京NSC5期生として芸人活動を開始。約2年間の芸人活動ののち大学を中退し、いくつかの編集プロダクションを経て独立。ジャンルを限定せず幅広い媒体で執筆中。著書に、『お金のミライは僕たちが決める』『週末バックパッカー』(ともに星海社新書)がある。